投稿者: 東京教務所

  • 「共に」

    「共に」

     4 年前、私は大学卒業と同時に練馬和光保育園に入職しました。これから、今の私の生きていく上での軸を形成した言葉を2 つお話しします。入職した当時、浄土真宗の勉強会に参加させていただき、最後の座談会で「これからは園児たちに浄土真宗の教えというものを教えていきたい」と私は今後の抱負を発表しました。しかし、その際に講師の方から言われた一言が、私の真宗の学びに対する指針となったと鮮明に覚えています。

     その方がその時言ったことは「教えるのではなく、伝えていくというのが健全なんじゃないでしょうか。」というものでした。私は真宗の教えを学んでいくうちに知識が先行して無意識のうちに自分が「教える」立場だと勘違いしていました。しかし、その一言で「教える」のではなく「伝え、そして共に学ぶ」ということに気づかされました。

     その後も日々の保育園での生活をしていく中で、学ぶことばかりです。最近の園児の中には3 歳の段階で塾や、体操教室に通ったりと、習い事をしている子が多くいます。楽しく習い事をしている子もいれば、中には話しているとあまり楽しくやっていない子もいます。もちろん、こどもが興味を持つきっかけとしてはいいですし、それを否定しているわけではありません。ただ、そこで思ったのが、園長が入職した際に掛けていただいた言葉で「オギャーと言って生まれた瞬間から意思を持っているんだよ」というものです。

     こどもたちの日々の成長を見るだけでも、一人ひとりの成長の違い、一人ひとりに対する保育の多様性、一人ひとりの自分の意志、一つとして同じものはなく、それらすべてに対して自分は「先生という教えていく立場」ではなく「そこから共に学び、共に
    育つ」ということに気づき学ばせていただいていると感じています。

     これからも「共に学び、共に育つ」ということを念頭に置き、様々な出遇いを大切にする保育園を目指していきたいと思います。


            『Network9(2023年6月号)より引用』井口 弘寿(練馬和光保育園 副園長)

  • 「子どもとともに育つ」

    「子どもとともに育つ」

     私が勤めているルンビニ幼稚園は、テレビでも紹介されている小江戸川越の近くに位置しています。春になると近くの川沿いの桜が見事に咲きほこり、通勤時の楽しみでもあります。

     私事ですが、昨年、育児休暇を終えて幼稚園の現場に復帰を致しました。養成大学を卒業し、保育者としては14年目を迎えましたが、親としてはまだまだ2年目。我が子の成長してはまだまだ2年目。我が子の成長に一喜一憂、悩んでは反省の毎日です。

     先日、某おつかい番組を家族で観ていたと時の出来事。息子が「この子何歳?」と尋ねてきました。「(息子と)同じ二歳だって」というと「へぇ、ひとりですごいね」と呟いたのです。続けて「(自分は)泣いちゃってできないかも」と言ったので、私は「泣かないで頑張りなよ~」と言いました。すると夫が「泣いても良いんだよ」と息子に言葉を掛けたのです。

     私も夫も、本人の成長を願う気持ちに変わりはないのですが、私とは違った背中の押し方にハッとした瞬間でした。「泣かないよ」とい言葉が必要な瞬間も訪れるでしょうが、「泣いても良いんだよ」…その気持ちに寄り添う一言に、この時の息子はきっと安心できたと思うのです。

     保育の現場でも、様々な子どもの葛藤に寄り添う場面が訪れます。その時についつい、「こうなって欲しい」という育ちを願うあまり、子どもたちの先回りをしている自分がいることがあります。時には一緒に立ち止まり、悩んだり考えたりするのも良いかもしれない。それは子どもたちを信じるということに繋がっている、と感じました。

     今回の出来事は、保育者としても親としても、自身を振り返り、考えることができるきっかけとなりました。また一つ子どもに(今回は夫にも)、学びました。ありがとう。これからも子どもとともに、親としても、 保育の現場でも、様々な子どもの葛藤に寄り添う場面が訪れます。その時についつい、「こうなって欲しい」という育ちを願うあまり、子どもたちの先回りをしている自分がいることがあります。時には一緒に立ち止まり、悩んだり考えたりするのも良いかもしれない。それは子どもたちを信じるということに繋がっている、と感じました。

     今回の出来事は、保育者としても親としても、自身を振り返り、考えることができるきっかけとなりました。また一つ子どもに(今回は夫にも)、学びました。ありがとう。これからも子どもとともに、親としても、保育者としても育ちあっていきたいと思います。
          『Network9(2023年10月号)より引用』関 麻美(川越ルンビニ幼稚園 教諭)

  • 「うそ」

    「うそ」

     「オオカミ少年」(イソップ寓話)はなぜウソをついたのだろうか?ふと、そんなことを思い、子どもたちのウソについて考えてみました。ウソにはいくつかの種類があります。「空想や妄想の世界に入ってつくウソ」「怒られないためにつくウソ」「自分を大きく、良くみせたいためにつくウソ」でしょうか。空想の世界のウソは幼児期にはよくあることで、問題はないと教わったことがありますので、それ以外のウソについて考えました。 

     子どもはよくウソをつきます。時には、職員室で話を聞いてお説教することもあります。

     こちらも真剣に聞き取ります。(職員室で尋問?と、恐ろしい想像をされるでしょうか?)これは、ウソをついた子に「ごめんなさい」を言わせることが目的ではありません。きちんと罪を罰することも目的ではありません。「二度と同じことはさせないため」というのとも少し違います。子どもですから何度でも同じようなことはしてしまうものです。

     私がそこまで真剣になる理由は、例えばケンカの場合、本当のことを話して自分の中に「意地悪な気持ち」があったことを知ることが大事だと考えるからです。本当のことを話すと、叱られても清々しい気持ちになります。そして叱られても、「ちゃんと愛される」という事になんの影響もないという安心感を与えることも大切だと考えています。

     『叱られる=嫌われる=愛されない』という心理が無意識に働いてしまうのではないでしょうか。皆、本当はいけない事だとわかっているのです。だからウソをついてしまうのです。【誰かのせいにしたり、ウソをついて自分を誤魔化したりしない】というお説教は「嘘をついたり、虚勢を張って自分を大きく良く見せようとする必要はありません、意地悪やいたずらをしてしまうけれど、あなたは十分いい子で愛されるのです」というところまで伝えたいという思いでしています。そこまでが役目だと思って今日もいたずらっ子を待ち構えます。
          『Network9(2023年12月号)より引用』佐野 美和子(アソカ幼稚園 主任教諭)

  • 「一人から始まる子ども会」

    「一人から始まる子ども会」

     お預かりしているお寺では、毎週日曜日の午前9時より、近所の子どもたちがお参りできる「日曜礼拝」を開いている。近頃の子どもたちは習い事などで忙しいらしく、一人も来ないということも往々にしてあるのだが、子ども会を始めた当初の私は、「いかに人数を集められるか」ということに執心して悩み、もう辞めてしまおうかとさえ思っていた。

     そんなある日のこと、小学校低学年の男の子が一人でお参りに来た。彼は本堂へ入るなり、自分のほかに誰もいない堂内を見まわして、「なんだよ、オレだけかよ~」とぼやいた。彼はお調子者で、いつも仲の良いお友達と来ると終始、ふざけてばかりいる少年だった。勤行本より遥かに大きな漫画雑誌『コロコロコミック』を隠し読み(?)したり、それを注意すると今度は本堂を飛び出して行ってしまったり。私は、きっとこの子はお勤めをするのが大嫌いなのだろうと思っていた。

     しかしその日、お勤めが始まって驚嘆した。彼が「正信偈」を、朗々とうたい始めたのだ。しかも空で。素直な声を背中で聞きながら、この子のことを知っていると思い込んでいた自分を恥じた。

     勤行が終わってから、思わず彼に「どうして今日は真面目にお勤めしたの?」と訊くと、「だって、みんなの前じゃ恥ずかしいじゃん」と照れたように笑った。茶の間へ移動して、一緒にお茶菓子を食べている時にも、やはり普段の彼からは聞けないような、学校や家で悩んでいることを自分から打ち明けてくれた。私は以前から「子ども会は人数ではない」と聞いてはいたが、この時初めて、彼からその事実を身を以て学ばせてもらった。

     今春、少年は高校へ進学するという。彼が小学校を卒業してからは学業や部活動が忙しくなり、なかなか会えなくなってしまったが、お陰様で今週も、本堂には近所の子どもたちの元気な声が響いている。

    『Network9(2024年3月号)より引用』田宮 真人(東京8組  究竟寺)

  • 「言葉のすれ違い」

    「言葉のすれ違い」

     最近、ちょっとしたことでイライラしてしまう…。家族との言い合いもしばしば。そして、疲弊していく。なぜかと考えると、自分の思った通りにいかないことに最大の原因がある。時間がたって、冷静になれば、申し訳ないという気持ちになるが、相手との関係の修復には時間がかかってしまう。

     言い合いをしてしまう原因として、「言葉のすれ違い」ということがあるように思える。私は相手の思いを100%受け取ることができないし、相手に私の思いを100%受け取ってもらうこともできない。なぜなら、お互いがその人自身にはなれないからだ。

     例えば、こちらから伝えたい真意が、相手に70%くらいは伝わったかなと思っていても、それは自分の思いの尺度での判断で、相手には10%も伝わっていないということも起こりうる。もちろんその逆のパターンもある。自分の尺度と相手の尺度が同じだと思ってお互いが言葉を交わしているかぎり、すれ違いが生じるのは当然のことなのかもしれない。


     そのすれ違いを解消しようと、相手を慮り、相手にとって良かれと思って発した言葉が、相手にとっては、迷惑になったり、意味が通じず、感情を逆なですることになってしまう場合もある。結局は、相手を慮ると言いながら、自分の思いを言葉として相手に押し付けているだけなのだろう。

     人間に言葉があるということは、言葉を受け止めてくれる相手がいるということであり、一人であれば、言葉はいらないのかもしれない。言い合いも相手がいなければできないのである。

     これから先も、言い合いをなくすことはできないかもしれないが、お互いの言葉を「聞き合う」という時間を持つことで、言葉が通じ合う関係が築かれていくのではないかと考えている。

    『Network9(2023年2月号)より引用』佐々木 弘明(東京教務所非常勤教区雇員)

  • 「お念仏の声」

    「お念仏の声」

     2024年1月1日16時10分、マグニチュード7.6・最大震度7の巨大地震が石川県能登半島に発生した。説明に及ばず被害は甚大であり、1カ月経った今もなお復旧の手が入れられない程の地域もあるとのことである。私たち大谷派寺院も、能登教区だけをみても353ヵ寺中、被害なしと報告があるのはわずか16ヵ寺と未曾有の惨事であり、周辺教区を含めると実に820ヵ寺に迫る寺院が今回の地震の被害(2/2現在)を受けている。

     阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震などの巨大地震をはじめとした自然災害は、都度私たちに突然の悲しさと虚しさ・人間の技術の限界を知らせてくる。

     皆さんは珠洲原発計画という言葉をご存知だろうか。1975年に持ち上がったこの計画は、住民の反対運動と、それを切り崩す電力会社側との28年に及ぶ「闘争」の末、2003年12月に凍結された。その住民の反対運動の中心には、「南無阿弥陀仏」を書いた筵旗(むしろばた)を掲げ、お念仏の声と共に約40日間市役所の前に座り込み、抗議を行った真宗門徒の姿があったという。万が一国が原発建設を強行していた場合、今以上に悲惨な事態に陥ることは火を見るより明らかである。先人の声が、今を生きる私たちを救ったといっても過言ではない。

     災害から私たちは何を学ばなければならないのか、お念仏の声を相続していくのは言うまでもなく私であり、あなたである。しかし同時に、その技術を享受していることもまた事実。必要なことはまずは歴史の事実や原発の仕組みを知ることから始まるように思う。

     私の祖父母の寺院は輪島である。小さい頃はご門徒の方々に沢山お世話になった。お念仏の土壌は無くならないと信じている。そんな能登の復興を切に願う。
              『Network9(2024年3月号)より引用』寺本 智真(東京教区駐在教導)

    「真宗大谷派東本願寺よりお知らせ」

    ・真宗大谷派東本願寺令和6年能登半島地震についてのお知らせは、東本願寺HPで更新しています。

  • 「感覚の回復」

    「感覚の回復」

     9月11日に第2子となる娘が生まれました。名前は「茅」(かや)と名付けました。「茅」という字は「ススキ」などの植物の総称なのですが、それらには「活力」、「生命力」という花言葉があるそうです。9月生まれの娘に相応しい植物であり、「活き活きと生きて欲しい」という願いにぴったりということで、この名前をプレゼントさせてもらいました。

     長女は「花」という名前ですが、今年で4歳になりました。念願の妹が生まれてきたことで〈お姉ちゃん〉をがんばるようになりました。「花はもうお姉ちゃんだから」という台詞とともに、色々なことにチャレンジしている姿がとても微笑ましいです。

     長女が生まれたときは、何もかもが初事でした。いろんなことに神経質になり、ああでもない、こうでもないと、ちょっとしたことにも四苦八苦していた覚えがあります。2人目となると、やはり余裕があるのか、あのときのような感覚があまり起こってきません。ましてや、いつの間にか「上の子は〇〇だったけど、この子は△△だね」と姉妹を比べていました。

     大谷専修学院のときに、先生から聞いた「【慣れ】というのは、感覚が麻痺しているということです」ということばが思い起こされました。私は長女を育てる中で、すっかり自分のことを育児経験者だと思いこんでいたのです。しかし、〈中村 茅〉という子どもを育てるのは今回が初めてのはずです。経験するがゆえに自らの感覚が麻痺していたのだと痛感いたしました。

     「仏法を聞くということは生活の中での肌感覚・感性が磨かれ、敏感になること」とある先生に教えていただきました。本来あったはずのものを失ってからしか気づけない残念な自分の姿を、生まれたばかりの娘から教えてもらいました。

    『Network9(2024年1月号)より引用』中村 晃(茨城1組  妙安寺)

  • 東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の年末・年始について、事務休暇は以下のとおりとさせていただきます。
    何卒、ご理解・ご協力のほどお願いいたします。

    【東京教務所】
    期   間   2024年12月28日(土)~2025年1月6日(月)
    緊急連絡先  090-5760-4385
     ※連絡につきましては、緊急を要する事柄に限らせていただきます。
      ご本尊等の予定がございましたら、お早めにご連絡をお願いします。

    【宗務出張所】
     期   間   2024年12月28日(土)~2025年1月6日(月) 

    ※真宗会館では、12月29日(日)~31日(火)、1月3日(金)~6日(月)は完全休館となります。              ※元日及び2日(修正会)はご参拝いただけます。(通常業務の対応はできません。)

  • 真宗の終活

    真宗の終活

     最近「終活」の話を聞く機会を頂きました。自分について考えると人生の終焉を見つめることは思いの外簡単な事ではなく、むしろ避けて通りたい。一方で、生きる意味を見つめ今を大切に歩むことは、機会を待っていては中々出来ることではないでしょう。

     「一生すぎやすし」である。思い通りにはいかないまでも出来ることはやっておこうと思います、自分でやらないと人さまに薦めることは出来ないと思ったからです。さて、仏教(真宗)の終活とはどのようなことでしょう。考えなければならない事は沢山あります(介護・保険・年金・相続・葬儀)。何れも計画通りには進まないことばかかりです。仮にそれらの全てが解決したとしても、さてそれで私はどう生きるのか?という問題が残ります。信仰の問題です。

     こういうご意見をよく聞きます「どうすれば安心して生きていけるでしょうか?」又は「こう考えていますがそれでよいでしょうか?」。私も同じ悩みを持っています。「長年聴聞してきたが、はたして私の聴聞のしかたは正しかったのだろうか?」などです。しかし私がどう考えるとか・こうすることが正しい、とかは私の関心事ではありますが、信仰の問題とは少し違うような気がします。

     確かに私は救済の対象ではありますが信仰の主体ではないからです。はっきりしていることは、私は命が終わるまでこの私の関心事から抜け出せないということです。「凡夫というは…」(『一念多念文意』)。さあ私は何を拠り所にして生きれば良いのでしょう。かけがえのない今を大切に生きるとは?うまく言えませんが、私の信仰は私の関心事の外にあるような気がします。南無阿弥陀仏。

    『Network9(2023年1月号)より引用』金庭 順三(東京宗務出張所 用務員)

  • 「〈真宗〉は第一次産業」

    「〈真宗〉は第一次産業」

     西田(しん)(いん)先生が言われた言葉が印象に残っている。それは「〈真宗〉は第一次産業の宗教である」というものだった。先生らしい独特の表現だ。第一次産業とは米を作るなど、生産業を指す言葉だ。そのように常に何かを生み出していく、具体的には言葉を生み出し続けてきたのが〈真宗〉であると。しかし、それが今は第二次・第三次産業になってしまっている。すでに生まれた言葉を加工するだけだったり、誰かが言った言葉を、そのまま提供するだけのものになってしまっているのではないか。そういう現状を、先生は大変心配されていた。言い換えれば、今の真宗の現場には教学が足りていないし、その教学とは、ただの知識ではなく、常に言葉を生み出すようなものでなければならない。そういう指摘であったと思う。

     思えば教学という言葉ほど、私たちにとって身近で曖昧なものはないのかもしれない。かつて私自身も、親鸞教学や曽我教学など、すでに出来上がった思想体系を、知識的に理解していくことが教学だと思っていた。しかし、教学的な知識というものが、かえって私たちの言葉を縛るということもある。真宗の立場ではこう、あの先生からはこう習ったなど、すでに出来上がっている空気感に(のっと)ることが、教学的に正しいことだと錯覚し、そういう中で、思ってもいないことを言ってしまったり、なかなか自分の言葉が生まれてこない。言うなれば「踏み外さないための教学」になってしまうのである。

     しかし本来は、自分の中に教学がはっきりしているからこそ、私たちはもっと自由(かっ)(たつ)に信仰を表現し、状況に応じ自信をもって、言葉を選んでいけるのだ。そのように、自分の足で踏み出していけるものが本当の教学なのではないか。その意味で教学とは、すでに出来上がっている何かではなく、私たちが物事を考えていく視点・立場であり、言葉を生み出す大地のようなものではないかと思う。あらゆる生活の経験が、自身の教学という大地の栄養となり、そこにただの受け売りではない、一人一人の〈真宗〉が生み出されていく。

    『Network9(2023年1月号)より引用』花園一実(教学館主幹 東京1組 円照寺)