投稿者: 東京教務所

  • 共にというけれど

    共にというけれど

    私のお寺の境内地には幼稚園がある。

    ある朝、庭の隅で幼稚園では一番お兄ちゃんのはずの5歳の子が声を出して泣いている。その子を囲んで、3~4人の子どもたちがいる。涙を拭いてあげるでもなく、なぐさめてあげるでもなく、ジッとその子の泣くのを見ている。

    そこに先生がやってくる。遠くてあまりよく聞こえないが、きっと聞いているのだろう。
    「どうしたの?」
    「だれかが、ぶったの?」
    「泣いていたらわからないでしょう?」

    ますます男の子の泣き声は大きくなる。見ていた女の子の顔まで、何か泣きだしそうだ。泣き出しそうな顔で、ジッと男の子の大粒の涙を見ている。

    泣かずにいられない子供の思いを飛び越して、大人は理由を、原因を、経緯を問う。ついでにもう泣くなと制する。
    「ホラ。あっちでいっしょに遊ぼ」
    なだめ、はげましたつもりでも男の子は、その差し出された手を突き返して、また泣く。少し先生に引きずられながら・・・。

    元の場所に残された女の子はまだ、じっとその場を動かない。泣き叫んだ男の子の、その場に残された悲しさ、悔しさを確かめるかのように動かない。
    私たち大人は、「子どもと共に」と言いうけれど、ちっとも「共に」になっていない。そこにジッと残された女の子だけが、その子の涙を、自分の涙に感じ取れたのかもしれない。

    ある法事の法話の中で「いじめ」の話をした。いじめられるものの痛みに寄り添っているがごとくに、正義の評論家になった。そこにいた大学生が私に聞いた。
    「住職、いじめにあったことありますか?」
    「ウーン、そうだな・・・」
    即答できずにいる私を見透かしているかのような、彼の目が忘れられない。泣いている男の子を、ていよくなだめすごした先生も、法話の後の問いかけにつまった自分も、真実ぶりながら、真実に遇(あ)えていない気がする。

    その場を収拾するマニュアルを上手にこなし、また人の悲しみを話のネタにしながら、それぞれの虚偽をさらけ出した。
    「虚」は「うわべだけでむなしい」
    「偽」は「人為なごまかし、つくろい」
    ということだ。

    よしあしではなく、きっとそんな事を気づかずに繰り返しているのだろう。自分の虚偽を浮かび上がらせる場所に、出遇わせてもらう事しか、真実に遇う道は開かれないのではないか。

    それは厳しい事だ。そして恥ずかしい事だ。しかし、自分の価値観だけ、自分のものさしだけにしがみつく事の傲慢(ごうまん)さを教えてくれる。自分の堅さ、せまさは、自分より柔らかく広いものによって知らされてくる。

    五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)

  • 第10回 阿弥陀経に聞く

    第10回 阿弥陀経に聞く

    原文
    漢字解説あり

     

  • 第9回 阿弥陀経に聞く

    第9回 阿弥陀経に聞く

    原文
    漢字解説あり

     

  • 第8回 阿弥陀経に聞く

    第8回 阿弥陀経に聞く

    原文
    漢字解説あり

     

  • 第7回 阿弥陀経に聞く

    第7回 阿弥陀経に聞く

    原文
    漢字解説あり

     

  • 第6回 今現在説法

    第6回 今現在説法

    原文
    漢字解説あり