投稿者: 東京教務所

  • 教区その現場から-能登震災支援活動-

    教区その現場から-能登震災支援活動-

    能登震災支援活動報告

     令和6年1月1日、能登半島を襲った地震は、年始という憩いの時間を破壊し、大勢の罹災者を生み出しました。日本中から支援の手が差し伸べられる中、「茨城1組」を母体として結成された「NPO法人ボランティアネット」も活動を開始しました。

     当会の最大の強みは、「キッチンカー」の存在です。これがあるおかげで、少し広い場所さえあれば、いつでも、どこでも、温かい食事を提供することができるのです。私が参加したのは3月12~13日、穴水町の(は)(し)(かり)集会所での活動です。すでに避難所としての役目はほぼ終了し、近所の皆さんは自宅で生活していましたが、今回のキッチンカー来訪をご縁として再度集まっていただきました。今回のメニューは肉鍋、ブリの刺身、そして特製ワンタンメンです。普段なかなか集まる機会がないようで、今回の炊き出しの場が互いに語り合える場となった感じです。部屋の中からは暖かい笑い声が響いてきました。

     また、ブリの刺身を前にして「2カ月ぶりのお刺身だよ」と涙ぐむ方もいらっしゃいました。他にも「震災疲れが心身に及んだ私達にとって、とても癒されます」「こうしたご支援が、何より力になります」「本当に辛い気持ちを聞いて欲しい」「泣ける場所が欲しい」など、現地の声もたくさん耳に入りました。町は着実に復興に向かっていますが、人々のダメージは、まだまだ癒されていません。

     今後も能登半島への支援活動は、年単位の長期的な視点で継続していく予定です。私たちは、支援者からの懇志を温かい食事に込めて、これからも活動を続けていきます。活動にご賛同・ご支援いただける方は【常陽銀行 総和支店 普通1438993 NPO法人ボランティアネット】までお願いいたします。

    NPO法人ボランティアネットクラウドファンディング実施中。支援・詳細は下記URLにてご覧ください。

    https://camp-fire.jp/projects/762179/preview

    【真宗大谷派東本願寺からのお知らせ】

    ・真宗大谷派支援活動等は、災害情報公式Xで更新しています。

    ・真宗大谷派東本願寺令和6年能登半島地震についてのお知らせは、東本願寺HPで更新しています。

                              『Network9(2024年4月号)より引用』大内 崇久(茨城1組 明超寺)

  • 巻頭コラム⑬  「過去が未来の鏡」になり得るとき

    巻頭コラム⑬ 「過去が未来の鏡」になり得るとき

     毎年、8月のキーワードは「戦争」である。2019年に亡くなった加藤典洋さんは、「戦後世代に戦争責任はあるのか」という問いを立て、「それは、『ない』ということから考えていっていい、『ない、しかし、引き受ける』というみちすじのありうることを明らかにすることがここでは大事だ」(『戦後を戦後以後、考える』岩波ブックレット)と述べている。その理由として、「罪の自覚は、その個人の行った行為に関する罪でない限り、必ず彼の帰属する集団への共同的ないし公共的連帯感を基礎にするからです」と。だから「彼らにまず罪の意識を根づかせようというこの試み(戦後世代にも罪があるとする主張〔武田補記〕)は、必ず顚倒した形でしか彼らに届かないことになるのです。それは、一種の強迫観念となって、彼らの中に生きるしかない」と。

     加藤さんは「戦争責任はない」と名言することが、「ある」を成り立たせる「足場」であり、この「足場」を確保するとき、主体的な選びとして「ある」が成り立つ可能性があると言う。

     更に、「罪の意識からはじめるというのはダメで、むしろ、この『人間として』という意識がどこから生じるか、ということを先にして考えていかないと、この罪の意識の問題も解けないのです。『世界を引き受けるとはどういうことか』と言いましたが、この意味ではそれは、『人間として』という意識を人はどのようにもつことになるのか、ということだと言ってもいい。」と述べる。

     加藤さんの「人間として」という提起は、「戦争」を過去の出来事にせず、未来をも視野に入れた発言だと思う。まさにいま起こっている、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとハマスの戦いが、それを証明してしまった。「戦争」は「悪」に決まっている、それであっても、懲りずに「戦争」を起こす「人間」の構造を、未来の問題として考えなければならない。つまり、「私の問題」として。これが未来の問題となったとき、初めて「戦後以後に生まれたひとびと」をも包んだ課題となるのではないか。

     そもそも、人間が、突き詰めれば、私が「貪欲(とんよく) rāga」という煩悩で出来上がっている以上、未来にも「戦争」を起こし得る可能性をつねに秘めている。だからこそ、この「貪欲」の騙しを見破り続けなければならない。「貪欲」の構造が明確に「対象化」されるとき、「一切衆生の中の特殊な自己」と異質な、もう一つの自己、つまり、「一切衆生の典型としての自己」が誕生する。これが加藤さんの言う、「世界を引き受ける」という言葉が指し示す「足場」となるだろう。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 187号 巻頭言(2024年10月号)


  • 「記号接地問題」

    「記号接地問題」

     ある研修会で、慶応義塾大学環境情報学部の教授で、言語認知発達や言語心理学などを専門に研究されている今井むつみ氏より、「生きた知識とは何か?」をキーワードにお話をいただいた。

     初めに、私たち人間が「言葉」があることによって安心してしまい、はっきりしていない概念を、まるで理解しているかのように錯覚することを指す「認知バイアス」という用語を教わった。私はこの話を聞きながら、釈尊が初転法輪に至るまで、深遠なる悟りの内容を言語化することを躊躇っていたというエピソードや、七高僧の一人である龍樹大士が「言語による概念化」を問題として取り上げていることについて、改めて考えさせられた。

     さらに今井氏は、現在世界中を席巻している「ChatGPT」に代表される生成AIについて、「記号接地」という問題を提起してくださった。認知科学者のスティーブン・ハルナッド氏の「AIは記号から記号(言語から言語)へ漂流し、一度も地面に降りることができずに回り続けなければならないメリーゴーラウンドのようだ」との発言の通り、私たちの言語の土台となる経験や感覚という「地面」に接していないAIは、数多くの言語を蓄積してはいるものの、それらが本当に意味するところを知り得ないのだという。

     講義を受けているうちに、「ああ、この話は私の聞法姿勢を問うものだな」と思えてきた。それは、仏法を聴聞するうえで、どうしても「解学(知的理解としての学び)」に終始してしまう自分自身の課題が炙り出されたからだ。単に教えの言葉を対象化し、「私」を抜きにして知識を溜め込むことは、地に足の着かないAIの学習方法と何も変わらないではないか。生活の中で、私の姿を言い当ててくださる仏法を聞思していく、いわゆる「行学」という歩みがなければ、「生きた仏教」にはなり得ない。

     私たち人間は言葉によって惑う。しかし、そんなことは百も承知で言葉によって説かれ、言葉によって伝えられてきた「不可称不可説不可思議」なる教え。ある研修員の方が仰った「仏教史は教えを聞いた弟子たちの『如是我聞』という歴史。だからこそ、無限に広がっていく」という一言に感銘を受けた。

    『Network9(2024年3月号)より引用』田宮 真人(東京8組 究竟寺)

  • 「何を以って僧侶なのか」

    「何を以って僧侶なのか」

     この言葉は特別講義にて曹洞宗・恐山菩提寺院代である、南直哉先生が講義中にふと口にされた言葉です。「何を以って僧侶なのか」と。この言葉を聞いたとき私はいつ僧侶になったのだろうかと思い起こしました。

     私は母方の実家が寺であり、前住職の孫として生まれました。9歳の時に祖父と祖母に連れられ、京都の本山で得度式を受式したことを覚えています。正直なところ当時の私は何もわかっていませんでした。宗祖が親鸞聖人であることも知らなかったですし、どうして同じくらいの年齢の子たちが一緒になって剃髪をして並んでいるのかも、よくわかっていませんでした。ですが私の僧侶としての出発点はいつなのだろうかと考えたとき、やはりこの得度式を受式したことが思い浮かぶのです。

     それから大谷専修学院に入学して真宗大谷派教師資格を取得させていただき、自坊に戻り5年が経とうとしていますが、私は先生が言った「何を以って僧侶なのか」なんて考えたこともなかったのです。そこで自分が無疑問的に僧侶であると思っていたことに気付かされました。問いを持っていなかったのです。

     私が僧侶としていまここにいるということは様々な出遇いがあったということです。教学館通信のタイトル「私が出遇った言葉」のなかで使われている、「遇」という言葉には「であい、めぐりあい」また、「たまたま、思いがけなく」という意があります。私の人生を過ごす中においても、たくさんの出遇いがあったはずです。しかし、私はその多くを必然的にとらえ、またその出遇いから関係性が続くと、今度はそれが当たり前に変わり、どこか、たまたま出遇えたということの有り難さを忘れ、なおざりにしていました。であっているのに出遇っていない、そんな、ちぐはぐな生活が私の日々の中にあるのです。

     「何を以って私は僧侶なのだろうか」この問いに対して、はっきりとした答えを持つことはこれからもないかもしれませんが、私が僧侶として生きていく中で大切に維持していきたい言葉でした。

    『Network9(2024年1月号)より引用』内藤 友樹(東京1組 光桂寺)

  • 「人間は死ぬということを「知らない」」

    「人間は死ぬということを「知らない」」

     私は真宗門徒として生きている中で、何の為に、誰の為にこの仕事をして、真宗の僧侶として生きているのかを考えます。それはお寺のため、門徒さんのため、そして何より私の周りにいる俗世間を生きる真宗の教えを知らない皆のためだと思っています。

     私は親鸞聖人の「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」という言葉が大好きです。この仕事をしていると解釈の難しい、人に伝えるのはもっと難しい言葉や教えに出逢います。しかし、この言葉は教えを知らなくても「なんとなくでも言っていることはわかるなぁ」と思ってもらえます。

     そして、「明日でいいや」「また来年だね」と言って生きている私たちの周りで、翌年にはもう会うことが叶わない人や昨日まで元気だったのに、と驚かれる人がたくさんいる事も事実です。この仕事を始めるまで、人はそれとなく80歳90歳まで生きるものだと思っていました。それが50歳で亡くなる方もいるのだなと思う今です。

     ただ、それでもまだどこか他人事で、「30歳だから人生まだまだこれから」と思ったりもしています。まさに死ぬことを「知らない」のです。他人の死しか知らない。武田定光先生のお話の中でいただいた大切な言葉を思い起こします。

     「死ぬことを知らないのは、生きていないということ」と。よく生と死の文字を繋げて一文字にして「いのち」と読むように表裏一体ではなく一つということで、死んだこともないのだから死ぬということがわからないのは仕方ないかもしれません。しかし、だからと言って「生きている!」と実感をしたこともない。自死を選ぶ若者も増えるこの時代に生きるということを知るには、死ぬということを知らなければいけません。

     周りの大切な人のために、この私だから出来ること、伝えられる事があると思ってこれからもこの仕事をしていきたいです。

               『Network9(2023年12月号)より引用』 石川 聖(埼玉組 白蓮寺) 

  • 東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の事務休暇は以下のとおりとさせていただきます。
    何卒、ご理解・ご協力のほどお願いいたします。

    【東京教務所】
    期   間   2024年8月13日(火)~ 19 日(月)
    緊急連絡先  090-5760-4385

    ※連絡につきましては、緊急を要する事柄に限らせていただきます。
     ご本尊等の予定がございましたら、お早めにご連絡をお願いします。

    【宗務出張所】
     8月16(金)は、真宗会館は完全閉館とさせていただきます。

  • 巻頭コラム⑫  『阿弥陀さんの謝罪』

    巻頭コラム⑫ 『阿弥陀さんの謝罪』

    『阿弥陀さんの謝罪』

     ひとは、誰かに謝罪をしてもらわないと気の済まないものを抱えている。車庫から車で、外の道路に出ようとしたとき、左から走ってきたバイクと接触しそうになった。バイクの運転手は、「いい加減にしろ、このやろう!」と叫んだ。このひとは、余程怒っていたようで、初対面の私に「いい加減にしろ」と叫んだ。「いい加減にしろ」とは、前に何か関係があってからの言葉だろう。このひとも誰かに、ちゃんと謝罪してもらっていないひとなのだと思った。

     ところで、『涅槃経』に出てくる阿闍世王子は、父を殺して苦しんでいるとき、御釈迦さんの謝罪を受けている。「もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし」(『教行信証』信巻・真宗聖典262頁【第1版】、298頁【第2版】)と。お前が父を殺して、罪があるとするならば、私にも罪があるのだ、と。つまり、阿闍世が罪を犯すような境遇になったのも、私のせいなのだと言って謝罪している。この謝罪を受けて阿闍世は、「無根の信」という境界を開いていく。「無根」だから、阿闍世自身の内部に根拠のない「信」である。この「根」は、一切衆生にまで繋がっている根っこだ。

     『涅槃経』の文面には「御釈迦さんの謝罪」と書かれているが、親鸞はそれを「阿弥陀さんの謝罪」と受け取っていたと思われる。

     いままで父殺しの罪に恐れおののいていた阿闍世が、「無根の信」を開くことで、地獄を怖れなくなる。地獄を怖れるこころは、まだ地獄に落ちていないこころだ。「無根の信」とは、自分が地獄と一体になったことの発見だ。つまり、一切衆生の罪と一心同体になったのだ。

     阿弥陀さんの謝罪がなければ、一切衆生の罪と同化することはできない。

     これは何も阿闍世だけに限ったことではない。なぜなら我々人類も、怨みを抱えて生きているからだ。どんな怨みか。それは、必ず死ななければならない※「いのち」として産み落とされたことに対する怨みだ。この怨みが、あらゆる犯罪を引き起こす根源的要因となっている。

    ※「いのち」

     しかしまた、この怨みは、阿弥陀さんからの謝罪を受けなければ、決して解体されない。「お前にはひとつも罪はない。すべては私が悪かったのだ」と謝罪する阿弥陀さんに出遇うことによって、初めて「いえいえ、こちらこそ申し訳ありません」と私の頭が下がる。この阿弥陀さんの謝罪に対する返礼を「念仏」というのだ。

     いずれにしても、人類の喫緊の課題は、阿弥陀さんの謝罪を受けること以外にない。

     この怨みが解体されなければ、「原理的に」、この世から犯罪はなくならない。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 186号 巻頭言(2024年6月号)


  • 聖典学習会―『観経疏』に学ぶ―の開催について

    東京教区『聖典学習会』を、8月21日(水)13時00分より開催いたします。
    聖典学習会は、東京教区内の真宗大谷派教師及び寺族の教学研鑽を目的として開催します。
    ※聴講は寺族・門徒問わずどなたでも可能です。

    【期日】
    2024年8月21日(水)13時00分~17時00分頃

    【講師】
    青柳 英司 氏(親鸞仏教センター嘱託研究員)

    【会場】
    東本願寺 真宗会館/Zoom配信

    【研修冥加金】
    お一人1,000円

    【申込締切】
    2024年8月15日(木)まで

    【申込方法】
    こちらよりお申込みページへアクセスいただき、必要事項のご入力・研修冥加金のご納金をお願いします。

    【メールの受信設定について】
    過去に学習会へご参加いただいた方へ、開催案内メールをお送りさせていただいております。
    案内が届かない場合、また、案内が不要な場合につきましては、下記をご確認の上、お手数ですがtokyo@higashihonganji.or.jpまでお問い合わせください。
    また、お申込み後、当日の詳細やZoomの入室URLが記載されたメールが、開催日2日前までに届いていない場合につきましても、お手数ですが、真宗会館(担当:寺本・毛利)までお問い合わせください。

    ■事務局(東京教務所)からのメールが受信できるよう以下のご設定をお願いします。
    ※ドメイン指定をされている場合は、tokyo@higashihonganji.or.jpの@以降をご登録ください。
    ※受信メールの設定をされていない場合でも、ご利用の契約会社にて設定(迷惑メールフォルダに自動振り分け等)されている場合がありますのでご確認ください。

  • 第2回慶讃法要の意義を学ぶ研修会

    このたび、下記の通り研修会を開催いたしますので、是非ご参加ください

    YOUTUBEでもご参加いただけます。https://kyosan-tokyokyoku.jp/1129igiwomanabu-1

  • 「真宗の教えに縁がないと生から死へまっしぐら」

    「真宗の教えに縁がないと生から死へまっしぐら」

     私の前職は高齢者向けの福祉用具の営業でした。例えば、杖は利用者の生活範囲を広げる助けになります。買い物に出かけるなど、自立した生活を送るために欠かせません。また、利用者自身が自立した生活を送ることで、介助者の負担を減らすことができます。利用者や介助者それぞれに「できること」を増やし、充実した生活を送っていただく。そうした意味でやりがいを感じる仕事でした。

     この仕事をする中で、様々な利用者と関わりました。時折、昔の写真が部屋に飾ってあることがあります。お話を聞くと「当時は元気にいろいろやっていたが、今はもうすっかり変わってしまったよ」という話です。できることが無くなっていく。自分もやがてそうなると思うと、どことなく虚しさを感じました。元気なうちに時間を充実させ、忙しく過ごしても虚しさに帰ってきてしまう。この身の虚しさを抱えて終わる。これが人生なのかと諦めていました。

     初めて『真宗聖典』を読んだときは、世間に培われた自分の価値観で読もうとしていました。世間の価値とどう違うのか、この教えは何なんだという思いで疑ってかかり、そして、私にわかれば南無阿弥陀仏してやろうという傲慢な思いが無意識にありました。助かりたいと思っていても、このような南無阿弥陀仏する気がない私がいくら聖典を開いても、虚しさが晴れることはありませんでした。

     先生方のお話を聞くと「ああ、そうだった。そういうことなんだな」と何度もうなずかされ、共鳴はするものの、やがて自分の火は消え、虚しさを感じる日常にもどってしまうのが感じられました。そうしてまた言葉に触れ、「ああそうだったな」と気づかされる。その繰り返しでした。しかし、これでいいのだろうかと思いました。

    念仏に生きる先達の方々、そして念仏に生きる朋に触れ、それぞれの火、生き様、背景、声を手掛かりにさせていただきながら、気持ちを新たに聖典に触れる。「南無阿弥陀仏」、本当の意味で、実感として帰依することが自分に火を灯し、虚しさを超えることであると思い、もう一度確かめながら歩んでいきたいと思っています。

    『Network9(2023年7月号)より引用』柏女 隆之(千葉組 因宗寺)