投稿者: 東京教務所

  • 『行財政改革検討委員会協議進捗報告』に関するアンケートの実施について

    『行財政改革検討委員会協議進捗報告』に関するアンケートの実施について

     『真宗』誌2023年8月号に掲載のとおり、2023年5月16日付で行財政改革検討委員会から内局へ『行財政改革検討委員会協議進捗報告』(以下『進捗報告』)が提出されました。
     今後、委員会では、組織機構改革、財政改革、教化改革を3つの柱として「行財政改革推進計画」の立案に向けた協議が重ねられることになります。
     行財政改革を推進するには、どこまでも広く意見を聴取し、それぞれが大切にしてきた歴史や文化、地域事情を十分に共有したうえで展望をもって総合的に議論することが必要です。
     そのような視点に立ち、このたび、今後の宗派における行財政改革推進の参考にするため、『進捗報告』を読まれた感想やご意見をお聞かせいただきたく、全国の寺院関係者・ご門徒・一般の方を対象に、オンラインによるアンケートを2023年9月1日(金)から10月31日(火)まで実施しております。

    アンケート及び詳細は東本願寺HPから

  • 東本願寺出版HP「TOMOぶっく」の停止について

    東本願寺出版HP「TOMOぶっく」の停止について

    東本願寺出版では、インターネット販売サイト「TOMOぶっく」と情報発信サイト「東本願寺出版HP」の2つのサイトを統合し、新ホームページを10月1日に開設します。

    つきましては現システムの移行作業を行うため、下記の期間中、書籍の受注及び出荷を停止しております。

    【停止期間】9月26日(火)14時 ~ 9月30日(土)まで

    ※10月1日から「TOMOぶっく」が新HPに切り換わります。

    ※詳細はこちら

  • 2023年御正忌報恩講・御正忌報恩講讃仰法要(音楽法要)出仕について

    2023年御正忌報恩講・御正忌報恩講讃仰法要(音楽法要)出仕について

    11月21日(火)から28日(火)まで厳修されます御正忌報恩講、21日(火)の御正忌報恩講讃仰法要(音楽法要)に出仕を希望される方は、『真宗』誌 2023年9月号を参照の上、出仕願(『真宗』誌9月号 巻末綴じ込み)または下記のPDFをダウンロードいただき、〈10月31日(火)必着〉までに東京教務所までご提出ください。

    出仕願(PDF)

  • 巻頭コラム⑩ 『「存在倫理」の疼き』

    巻頭コラム⑩
    『「存在倫理」の疼き』

    『「存在倫理」の疼き』

    誰が見ても、ロシアによるウクライナ侵略戦争は間違っていると思えるのに、その考えは、いわゆる「西側」という色メガネを掛けた人間たちの感覚なのだと教えられた。それは、

    「国連人権理事会での『理事国としての資格』をロシアから剥奪する国連決議に関して」、圧倒的多数で賛成されるはずだと思っていたのに、「決議案に賛成したのは九十三カ国、賛成しなかったのは八十二カ国」

    (大澤真幸『この世界の問い方』朝日新書)

    と評決が拮抗したことを知ったからである。「賛成しなかった八十二の国」とは、「グローバルサウス(第三世界)」と呼ばれる、アフリカやラテンアメリカ諸国、アジアの新興国のことだ。

     その理由を大澤は、「少なくとも、これらの国々から見れば、ロシアの人権侵害を非難する西側諸国も、今ロシアがウクライナに対してやっているのと同じような人権侵害を、自分たちに対して行ってきたように感じられるからである」と述べている。

     だからといって、ロシアの侵略戦争がまったく支持されるわけではない。そこで大澤も述べているが、西側を支持すべきだと。西側は自分たちの偽善が偽善であることを自覚できる可能性を秘めているからだと。そしてその自覚が同時に、グローバルサウスの国々が真底納得する「倫理」につながっていなくてはならないと。

     「西側」という色メガネを掛けた私の罪も、そこに炙り出された。同時に、人間が「我々は」という言葉を使うとき、どこまでを「我々」と意識できるかが問われた。

     阿弥陀さんは、「諸天(しょてん)・人民(にんみん)・蜎飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん」(『真宗聖典』百五十八頁)と言われる。つまり、阿弥陀さんが呼びかける救済対象としての「我々」は、人間をも超え、ボウフラや蛾やミミズなどの生き物も包んでいる。当然、グローバルサウスをも超え包んでいる。そこまでを射程に入れられなければ、あらゆる生き物が納得する「倫理」にはならない。奇しくも亡き吉本隆明が「存在倫理」という言葉を作ってまで表現しようとしたかった「倫理」とは、そういうものではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 184号 巻頭言(2023年4月号)


  • 巻頭コラム⑨ 『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    巻頭コラム⑨ 『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    まさか二十一世紀になって、武力により他国を侵略するなどということが起ころうとは、思ってもみなかった。国連は、他国間の紛争仲裁システムだと思っていたが、これも組織の成り立ちに問題を抱えていて、機能不全に陥っている。

    改めて「過去は未来の鏡」だと教えられる。「未来」を知ろうとするなら、人類の「過去」に学ぶ以外にない。どうも「過去」以上の「未来」という夢は、人類に与えられていないようだ。

    そのような状況に、〈真・宗〉が人類に提供できるものは、世界観の奪回ではないか。私たち人類は、「世界は一つ」だと思っている。確かに地球は物理的に一つの球体である。だから領土を奪い合うということも起こる。

    しかし、そこを生きる「環境世界」まで一つだと考えることは危険である。「環境世界」という用語は、生物学者・ユクスキュルの言葉だ。彼は、「世界が一つ」という観念を「妄想」と呼び、次のように言う。

    この妄想は、世界というものはただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。

    ここから、すべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる。

    『生物から見た世界』

    彼は、生物を丁寧に観察することにより、人間の眼を、「妄想」と批判した。人間の眼は、人間という特殊な生物が受け取った限りでの見え方であり、決して「客観的な事実」ではないと。他の生物と人類の「環境世界」は重なりあっているだけであり、決して「一つ」ではないと。それを突き詰めれば、地球上に七十六億人がいれば、七十六億の世界があることになる。それを私は〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)と言っている。厳密に見れば、いま、ここで、この世を一人称で生きているのは、私以外にない。

    私を成り立たせている唯一の「環境世界」こそが「私」だ。この〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)が奪回されなければ、人類の抱えている「比べるという煩悩」を相対化することはできない。私たちが生きられるのは、本来、比べることのできない独尊の世界なのである。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 183号 巻頭言(2022年10月号)

  • 巻頭コラム⑧ 『孤独感の罪』

    巻頭コラム⑧
    『孤独感の罪』

    『孤独感の罪』

    二〇二二年一月二十七日に「埼玉県ふじみ野市」で起きた「散弾銃男立てこもり事件」が抜きがたい棘のようにこころに刺さっている。事件の完全解明はまだだが、私が気になった点は、犯人(六十六歳・男)が母親(九十二歳)に完全依存していた点だ。診察のため病院へ母親を連れて行き、診察の順番を待てずに、自分の母親を最初に診ろと迫って騒いだとか。また、すでに亡くなっている母親に心臓マッサージをしろと、出張介護クリニックの医師に要求し、それが叶わないと分かると医師を猟銃で殺害したとか。断片的な情報だが、これらをつなぎ合わせると、どうしても母親に完全依存していた六十六歳の男の像が浮かび上がってくる。これはあまりに残忍で猟奇的で、特異な事件だが、こういう男が生まれてくる淵源と、自分は地続きだと感じる。つまり、自分が愛する対象を傷つけられたとき、自分はそれを承諾できないという痛みだ。それを突き詰めて考えると、『仏説無量寿経』の「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)《略》身自当之(しんじとうち)、無有代者(むうだいしゃ)」(独り生じ独り死し独り去り独り来りて《略》身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし)が受け取れないということだ。

    この経言は人間に「孤独感」を与えるものではなく、公明正大な「独生独死」という仏法の〈真実〉を教えるものである。この世に「生きている」と言えるのは、〈私〉以外にはいないという厳粛な事実だ。

    しかし、人間はそれを寂しさという「孤独感」に変質させてしまう。「独生独死」を「孤独感」として受け取らせるのは「貪欲」(とんよく)という煩悩だ。「貪欲」は「独生独死」を打ち消すために、あらゆるものを身に付けようとする。ヤドカリが硬い貝殻で身を守り、その貝殻にイソギンチャクや藻などをくっつけるのと似ている。この六十六歳の男は、母親をくっつけて身を守ろうとした。殺害は「孤独感」という「貪欲」が、手が付けられないくらいに肥大化した結果ではないか。悲しいことに彼には「貪欲」が透明になっていて、それが「貪欲」として見えていなかった。「貪欲」が「貪欲」として見えれば、「貪欲」の支配から逃れられる。〈真・宗〉が人間に要求するものは、この「気付き」という一点なのではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』182号 巻頭言(2022年4月号)

  • 巻頭コラム⑦ 『希望をも超えた世界』

    巻頭コラム⑦
    『希望をも超えた世界』

    『希望をも超えた世界』

    コロナ下にあって、みんな憂鬱な顔で暮らしている。このようなとき、〈真宗〉は何を発信できるのかと問われた。ただ、コロナについてはいくら探しても朗報らしきものは見つからない。そして原点に帰された。〈真宗〉の原点は、「あらゆる災厄はすべて阿弥陀さんのご催促と受け取れ」だ。蓮如上人が「疫癘の御文」(『真宗聖典』八二七頁)で述べられたことは、人間は災厄で死ぬのではなく、誕生という根本原因で死ぬということだ。災厄は死の条件であり、原因ではないという見方だ。さらにそれは他人の死ではなく、他ならぬこの〈自己自身の死〉として受け取れと迫ってくる。いわば「今日が人生最後の日と思え」ということだ。

    親鸞聖人も「臨終」を「「一切臨終時」というは、極楽をねがうよろずの衆生、いのちおわらんときまで、ということばなり。」(同書『一念多念文意』 五三四頁)と述べている。「いのちおわらんとき」というのは、これから何十年後かのことでなく、〈次の一瞬〉のことである。私達の死の可能性は、つねに〈次の一瞬〉にあるからだ。その可能性を否定したいために、私達は自分の臨終を何年後かに想定したがる。その自分に向かって、「今日が人生最後の日と思え」という叫びが浴びせられる。これは人間が他の人間に向けて発することのできる言葉ではない。 蓮如上人も「阿弥陀如来のおおせられけるようは」(同書『御文』 八二七頁)と言われるように、阿弥陀さんだけが人間に向けて発することのできる言葉だ。この叫びは〈真実〉の叫びである。ところが自分は、この叫びを素直に聞くことができない。どうしても、「今日が人生最後の日」だとは思えない。実は、この徹底して〈真実〉に背いている自己を阿弥陀さんはターゲットにされている。まさに「謗法の徒」をのみターゲットにして「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ」(同書 八二七頁)よと迫ってくる。究極的に阿弥陀さんが見せて下さる〈浄土〉とは、絶望もないが希望をも超えた世界であるに違いない。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』181号 巻頭言(2021年10月号)

  • 東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び宗務出張所の事務休暇は以下のとおりとさせていただきます。
    何卒、ご理解・ご協力のほどお願いいたします。

    【東京教務所】
    期   間   2023年8月11日(金)~ 17 日(木)
    緊急連絡先  090-5760-4385

    ※連絡につきましては、緊急を要する事柄に限らせていただきます。
     ご本尊等の予定がございましたら、お早めにご連絡をお願いします。

    【宗務出張所】
     8月16(水)・17日(木)は、真宗会館は完全閉館とさせていただきます。

  • 巻頭コラム⑥ 『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    巻頭コラム⑥
    『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    「死なない」とは不老不死の意味ではない。そのために「死なない」と括弧を付けた。

    以前、私はこのように理解していた。「人間ばかりでなく、すべての生き物は死ぬ。死は生理的なことで誰も逃れることができない。それでも真宗は、ひとが亡くなることを『死ぬ』とは言わず、『往生する』と表現するのだ」と。この理解では、「死ぬ」ことが自明の出来事になっている。自分は「死ぬ」ことを知っているが、それを真宗では「死ぬ」とは言わず「往生すると意味づける」のだと思っていた。しかし、それが間違いだと気付いた。自分は「死」を完全には知らないからだ。自分が知っている「死」は二人称、あるいは三人称の死であり、「一人称の死」では決してない。自分はまだ死を体験したことがないのに、死が何かを知っているという思い上がりがそこに潜んでいる。この思い上がりでイメージされた「死」は、「暗く、冷たく、寂しい」ものだ。なぜそう感じるかと言えば、他者の「死」を〈利害損得心〉で見て、「死」をイメージするからだ。親鸞は、この思い上がりから生まれるイメージの解体を「往生」という言葉で直感したのではないか。さらに親鸞は、それを「断」という強烈な言葉で提示する。「『断』と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。」(『教行信証』(信巻)真宗聖典二四四頁)と。往生とは、死んで他の生き物に生まれ変わるとか、理想の他界や地獄に生まれることでは、まったくないという意味だ。しかし、そう言われても、まだ体験したことのない自分の「死」を、あれこれとイメージしてしまうのも偽らざるところだ。たとえそうであってもよいのだ。そのイメージが沸き起こる度に、「往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。」(歎異抄・聖典六三七頁)と断じようとして阿弥陀さんが関わって下さるから。自分が知っている死のイメージが完全に解体される「臨終の一念」に到るまで。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』180号 巻頭言(2021年4月号)

  • 2023年「御正忌報恩講」参拝の申込について

    2023年「御正忌報恩講」参拝の申込について

    本年も、「御正忌報恩講」を執り行います。
    ついては、本山HPに詳細が載っておりますので、こちらからご覧ください。

    つきましては、有縁の方々をお誘いあわせのうえ、ぜひご参拝ください。