投稿者: 東京教務所

  • 巻頭コラム⑤ 『〈コロナ〉というメタファー』

    巻頭コラム⑤
    『〈コロナ〉というメタファー』

    『〈コロナ〉というメタファー』

    新型コロナウイルスという見えない存在により、全世界が怯えている。このウイルスが恐れられているのは、感染していても症状がすぐに現れないことと、感染してからの致死率の高さだ。科学者に聞くと、ウイルスは、今回のように人類に災厄をもたらすが、同時に進化ももたらしてきたという。今後は、ウイルスを「正しく恐れる」ことにこころを留めなければならない。

    蓮如上人は「疫癘(えきれい)の御文」で「これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業(じょうごう)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。」(『真宗聖典』827 頁)と述べている。ウイルスは死の条件であっても、原因ではない。死の原因は誕生以外にない。これは〈真実〉の言葉だ。ただ人間は、それを「その通り」と受け取れない。人間は、死を「まさか」という意識でしか受け取れない。蓮如さんも、連れ合いを次々に四人も亡くされているのだから、「まさか」と驚きうろたえたに違いない。もし驚きうろたえないようでは、凡夫失格である。ただし、驚きうろたえただけで終わってはいなかった。そこから阿弥陀さんの声が聞こえてきたに違いない。「さのみふかくおどろくまじきことなり」と。この言葉は驚きうろたえている蓮如さんの耳にしか聞こえてこなかったのではないか。蓮如さんの耳に聞こえてきた言葉を、筆を執って「御文」に書き留めたのだろう。だから蓮如さんは、驚きうろたえている門徒に向かって語っているように見えて、本当は、阿弥陀さんからご自身が受け止めた言葉をしたためたに違いない。「私が驚きうろたえているとき、阿弥陀さんから、このような言葉をいただいたのだ。さて皆さんはどう受け止めるか」と蓮如さんは語られたのだろう。蓮如さんも、我々真宗門徒も、同じ地平に立っている。それは一寸先にある〈死〉に、唯一無二の自己が対面している地平であり、曠劫以来、阿弥陀さんとだけ対面してきた地平である。

    ※メタファー(metaphor)は「隠喩(いんゆ)」と訳され、理性で明確に概念化できない事象や表現を意味する。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』179号 巻頭言(2020年9月号)

  • 巻頭コラム④ 『元号からの問いかけ』

    巻頭コラム④
    『元号からの問いかけ』

    『元号からの問いかけ』

    「元号」とは、「古代中国の前漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝の時空統治権を象徴する称号」(ウィキペディア)である。つまり、「天皇が統治支配する時間・空間」のことだ。政府の元号選定論議では、中国由来を排除し、国書である万葉集から「令和」を選んだとも言われている。ここに「日本人固有の尊厳」を確立するのだという動機が見える。日本人は、昔から「日本人固有の尊厳」を確立しようとするとき、諸外国の文化、つまり仏教等の外来思想を排除してきた。それも国家という共同幻想体であれば、そういう力学がはたらくのもやむを得ないことかもしれない。私は、それを政治的文脈でなく、信仰者のアイデンティティの文脈で考えている。

    私は元号を使用するとき、「ためらい」を感じる。それは仏教導入時の曽我氏と物部氏の争い、さらに「承元の法難」、さらに芋づる式に明治期の廃仏毀釈、そして太平洋戦争までをも連想してしまうからだ。

    煎じ詰めると、戦時下で「天皇と阿弥陀仏の本願は同様であると思ふ」と語った教学者のアイデンティティはどのような形をしていたのか。つまり「日本人としての私」か「信心の行者としての私」か。これは「日本人」にとって、実に根深い問題である。そしてそのふたつは自分の中でいかなる関係にあるかが問われるべきだ。決して、それは二者択一の問題でなく、主客の問題として問われるべきだろう。 「過去は未来の鏡」だから、これは決して過去の問題ではなく、来るべき未来の問題である。「信心の行者」にとって「元号」は問題提起として、つねに眼前に存在しているのではないか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』178号 巻頭言(2020年4月号)

  • 報恩講ってどんな行事?どのようなことをするの?

    報恩講ってどんな行事?どのようなことをするの?

    「報恩講」という言葉をご存知でしょうか。浄土真宗では年間に様々な法要を勤めておりますが、その中で最も大切な仏事として、報恩講を勤めております。京都にある本山や各地の別院、全国にある9,000ヶ寺で勤め、多くのご門徒とご一緒にお参りをしております。ここでは、報恩講とはどのような願いをもった法要なのか、どのように勤めているのかをご紹介します。

    報恩講ってどのような法要なの?

    浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、1262(弘長2)年11月28日に90歳の生涯を終えられました。阿弥陀如来、親鸞聖人をはじめ、念仏の教えに生きられた先達に思いを馳せ、その恩徳に感謝し報いるための法要が、報恩講です。お念仏の教えを聴聞し、自らの生活を振り返るときとして、真宗門徒にとって「1年は、報恩講に始まり、報恩講に終わる」と言われるほど、1年で最も大切な仏事なのです。全国各地の寺院・教会をはじめ、ご門徒の家々においても勤められており「お取越」や「お引上」の名で親しまれています。「お取越」とは、親鸞聖人のご命日が巡ってくる前に取り越して勤めることからそう呼ばれており「お引上」も同様の意味です。報恩講は、人々が寄り添い、お斎をいただくなど、共にふれ合いつつ聞法する場として、今日まで脈々と勤められています。

    報恩講ってどのような法要なの?

    京都・東本願寺では、親鸞聖人のご祥月命日である11月28日を結びに、毎年11月21日~28日までの8日間にわたり勤められています。親鸞聖人の教えを引き継ぐ真宗の各派本山でも、毎年報恩講が勤められていますが、勤める日が異なります。東本願寺では新暦の11月28日を御命日としていますが、西本願寺では旧暦の御命日の11月28日を新暦に換算した1月16日を御命日として、毎年1月9日から16日まで勤められています。

  • 巻頭コラム③ 『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    巻頭コラム③ 『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    人間の「諸問題」は、突き詰めてみると「あれかこれか」という質の問題だ。民主主義は素晴しいと言って、手を挙げた結果、「49対51」になったらどうするか。その49人は51人の意見に従わねばならないのか。それでは「決着つかん」のではないか。

    近頃「同調圧力」という言葉が気になっている。ウィキペディアでは、「同調圧力(英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定を行う際に、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に強引に合わせさすことを指す。」とあった。

    〈真宗〉は常に、どの時代でも「少数意見を有する者」の側にある思想ではないか。太平洋戦時下では、「少数意見を有する者」の側であることに踏ん張り切れなかった。「同調圧力」に屈した。

    なぜか。それをとことん問い詰めていくと、我ら真宗門徒が阿弥陀さんの批判を聞くことができなかったからだ。阿弥陀さんを中心に生きるのではなく、「同調圧力」を生みだす集団におもねたからだ。さらに「同調圧力」をかける側に回ったからだ。それは、自らの持っている「同調圧力」を対自化できなかったということだ。

    それもそのはずだ。人間には「同調圧力」を見ることができない。それは透明な「空気」みたいなものだ。いじめ集団には、いじめられる側の圧迫感が見えないのと同じだ。 「過去は未来の鏡」である。これからも〈人間界〉の「諸問題」に直面したときには、〈阿弥陀中心主義〉でいくべきだ。人間は未来永劫、「間違う存在」だから、阿弥陀さんという〈真実の鏡〉をたよりにするしかない。阿弥陀さんだけが〈人間界〉を絶対批判できる眼を持っている。決して、人間を、そして〈人間界〉を信じてはならない。〈人間界〉には救いはないぞと、阿弥陀さんは叫んでいる。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』177号 巻頭言(2019年9月号)

  • 慶讃法要 団体参拝の様子(5)

    慶讃法要 団体参拝の様子(5)

    宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要が、2023年3月25日(土)より厳修され、同年4月29日(土)の結願法要をもって無事、全日程を終了いたしました。
    東京教区において、団体参拝も行われ、何事もなく終了いたしました。

    団体参拝の様子はこちら

    今後は、教区の慶讃法要のお知らせを投稿していきますので、お気に入りへのご登録よろしくお願いします!

  • 石川県能登地方を震源とする地震について

    石川県能登地方を震源とする地震について

    5月5日に石川県能登地方を震源とする最大震度6強の地震が発生しました。同地域においては、昨年6月にも地震で被災されており、このたびも能登教区の珠洲市を中心に被害がもたらされました。次のとおり被害の報告が寄せられております。

    詳細につきましては、こちらをご覧ください。

  • 巻頭コラム② 『スマホ内世界は二十願の世界』

    巻頭コラム②
    『スマホ内世界は二十願の世界』

    『スマホ内世界は二十願の世界』

    電車に乗って、周りを見渡してみると、ほとんどのひとがスマホを片手に何やらやっている。ひと昔前までは、新聞や本を読むひとが多かったが、いまでは、それは皆無に近い。スマホでゲームに熱中するひと、メールをするひと、ショッピングのページを見つめるひとと用途はまちまちだが、外見上はほとんど区別がつかない。

    確かに電車の中は密閉空間だから、息が詰まる。その息苦しさからスマホの世界へと没入する。それは一種の「出家現象」だ。娑婆の息苦しさを脱して、ひとりの世界へ脱出したいという願望だろう。それもよく分かる。ただ、よく考えてみると、あれは他者に通じるツールのように見えて、自分の内界と深くつながっているのではないか。まさに「スマホ内世界」だ。

    スマホを見ながら自転車に乗り、誤って歩行者を事故死させる事件があった。あれも完全に「スマホ内世界」に入り込んでしまい、外界が見えなくなる現象だ。「スマホ内世界」は、快適で温かい世界なのだろう。だから肉体という三次元の世界を超えてしまう。私たちが生きているのは、老病死が存在する三次元の世界なのに。

    「スマホ内世界」とは親鸞の信仰世界で言えば、二十願の世界だ。そこは胎宮と譬喩的に語られる。胎宮とは、阿弥陀さんの胎内だろう。そこは温かく快適で安全な場所だ。そこに入ってしまえば恍惚に浸れる。この胎宮がなぜ危ないのかと言えば、それは阿弥陀さんと対面できないからだ。阿弥陀さんの胎内から生みだされ、初めて阿弥陀さんと対面し「親子の名のり」が出来る。それが南無阿弥陀仏だ。  スマホが便利なうちはよい。便利を超えて依存したら、「スマホ内世界」に飲み込まれる。私たちは、いま、そういう危険な状況を、人類史上はじめて体験しているのではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』176号 巻頭言(2019年4月号)

  • 慶讃法要 団体参拝の様子(3)・(4)

    慶讃法要 団体参拝の様子(3)・(4)

    宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要が、2023年3月25日(土)より厳修されております。
    また、東京教区における団体参拝も始まっております。

    団体参拝の様子はこちら

    今後も団体参拝の様子を投稿していきますので、お気に入りへのご登録よろしくお願いします!!

  • 真宗会館におけるクールビズの実施について

    真宗会館におけるクールビズの実施について

    2023年5月1日(月)~10月31日(火)の間、クールビズを実施いたしますのでご理解賜りますようお願いいたします。
    なお、職員はノーネクタイ及びノージャケットでの勤務を基本とし、諸議については、基本的に職員の間衣・輪袈裟の依用はしないことといたします。(但し、会議出席者に対して役職袈裟等の依用を依頼する場合は除く)

  • 東京教務所及び東京宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び東京宗務出張所の事務休暇について

    東京教務所及び東京宗務出張所のゴールデンウィーク期間について、下記のとおり事務休暇とさせていただきます。


    【東京教務所】
    期 間:2023年4月29日(土)~2023年5月7日(日)
    緊急連絡先:090-5760-4385
    ※連絡につきましては、緊急を要する事柄に限らせていただきます。


    【東京宗務出張所】
    期 間:5月3~5日は真宗会館完全休館とさせていただきます