カテゴリー: 如是我聞

  • 利益

    利益

    「見捨てられていない」という感触は、人間に力を与える。

    もう一歩前へ踏み出してみよう・・・。ここもうひと踏ん張りしてみよう・・・。

    そんなふうに励まされる力は「利益(りやく)」である。

    「相手を選ばない」ということ以上に頼もしいことはない。

    煩悩具足の私でも、仏様の眼の中に映ることができるという安心感につながる。

    そんなふうに感じられる力も「利益」である。

    なむあみだぶつ・・・なむあみだぶつ・・・。

    そう声に出すことは仏様の励ましと眼差しと願いに応えることになる。

    声に出して応えることで、仏様の利益に遇うことができるとは、誠に不思議なことである。その不思議さは分別と理論でまかなえない。分別と理論でまかなえない所に本当の「信」が生まれるのではないだろうか。

    五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)

  • 眠りと憶念[おくねん]

    眠りと憶念[おくねん]

    猫は一日に18時間くらい寝るそうです。いつもうらやましいなぁと思いながら、寝姿を眺めています。人間は、ひとによって睡眠時間はまちまちです。7時間以上寝ないと、短命になるとか、寝過ぎてもいけないとか、いろいろにいわれています。

    能科学者・茂木健一郎が、「なぜひとは眠るのか」について話していました。

    脳は起きている間、新しい情報を受け取りつづけているそうです。昼間は、情報の受け入れに手一杯で整理する時間がありません。そこで、脳は、眠ることによって、昼間に得た膨大な量の情報を整理するそうです。ときには、昼間以上に活発にはたらいているそうです。ですから、脳に休暇はないのです。脳は、休憩のために眠るのでなく、昼間とは違った仕事をするために、「眠り」というモードへシフトチェンジするのです。

    また、脳の得意なことは、たんなる記憶ではなく、新たに得た情報から新しい意味を発見することだと言っていました。記憶力では、とてもコンピューターにはかないません。

    そういう私もコンピューターにお世話になっているひとりです。たとえば「浄土」という文字が、親鸞の主著である『教行信証』にいくつ使われているかなど、瞬時に調べることができます。(ちなみに119回です)しかし、コンピューターは、文字の関連性から思想を組み立てることはできません。

    これらの話を聞いたとき、「眠ることは、脳を休めるため」という考えが間違いだと教えられました。このような脳のはたらきを、親鸞は「憶念」といったのではないでしょうか。親鸞は「憶念は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり」(『唯信鈔文意』)と述べています。「本願をつねにおもいいずるこころのたえぬ」が、「憶念」にあたると思います。

    以前、私はこの表現を譬喩だと思っていました。「つねに」は、目覚めている間のことで、寝ているあいだは無理だろうと。ところが茂木健一郎の話を聞くと、まんざら譬喩でなく、現実に脳がおこなっている作業が、「憶念」だとわかりました。ただし、寝ている間も憶念が継続するためには、目覚めいてる間、十分に課題を考えておく必要があります。親鸞は「本願」について、昼間、十分に考えていたのだと思います。

    親鸞は、夢の告げを大切にします。ただ、現代人とは夢の味方が違います。現代人は眠ったとき、たまたま見るのが夢です。親鸞の夢は、ある課題を昼間考えつづけ、夜は、「告げを受けるため」に仮眠している状態で見るのです。そこには覚醒時の脳と就寝時の脳との共同作業があります。どちらが欠けて「憶念」にはならないのでしょう。

    しかし、覚醒時の脳では、なにも考えていないように見えて、就寝時の脳がフルに考えていることがあります。覚醒時の脳は、些細なこととして忘れていても、就寝時の脳がしつこく考えていることがあります。あるときフッと、「おれが気になっていたのは、このことだったんだ」と気づくことがあります。日ごろは雑事に紛れて忘れていても、就寝時の脳は決して忘れません。人間のこころは不思議なもので、自分にとっては、まだまだ未知の世界です。

    今日も、私はスーッと眠りに落ちます。いつ眠ったかを知らずに眠ります。これは「死」と同じ形です。「死」も「眠り」と同様に人間には自覚できません。眠りは「死」の予行演習です。できたら、本番も、スーッとであったらいいなと思います。

    武田 定光(たけだ さだみつ 東京都江東区 因速寺住職)

  • 「普通」とは

    「普通」とは

    テレビや新聞では「親殺し」「子殺し」「モラル危機」にともなう「崩壊」のニュースがあふれ、娑婆世間に生きる私たちを切なく重苦しくしている。マスコミは事件のたびに現場付近の住民にマイクを向けている。

    その答えの多くは「普通の人」「まじめな人」「感じのいい人」「勤務成績も優秀な人」である。

    それを聞くと、あたりまえのことながら「人は相手の内面を正しく知ることはできない」という事実を突きつけられる。その内面に少しでも近づくために「言葉」を使うけれども、コミュニケーションも間の取り方もとても難しくなっている。

    世間が求める「普通」は、実は、その人らしさでも個性でも自然さでもなく、世間がその時々によって作りだしたものである。そもそも「あまねく通ずる一般性」というのがその意味であるならとても難しいことではないか。 一番自然で自分らしくいられる状態は皆人によって異なる。自分の「普通」は世間の「普通」とは同じではない。そして世間や社会も重層化し幅がある。

    世間的に「普通」でいようとするために、人は周りを気にして、自分を変え、抑え、時には見栄をはりながら四苦八苦するのだ。その窮屈さと重苦しさの反動が、すぐに相手を抹殺消去するほどに増幅してしまうこと、そしてそれを止められなかった無力感、空しさ、後悔、挫折。それほどに人間(私)は弱く頼りない。

    正しくお釈迦さまの言われた具体的な「苦」の姿に違いない。宗祖親鸞は「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と自覚したのだろう。強く正しくなろうとする事に疲れ破れた時、弱さからやりなおすことを許しあうことが本当の「関係」ではないか。世間的に「甘い」かもしれないが、そう感じる。

    五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)

  • 心に残った葬儀

    心に残った葬儀

    朝、ご門徒の娘さんから電話があった。「母が今朝亡くなりました」と。入院されていることは聞いていたが、まさか、そんなに具合が悪かったとは思ってもいなかった。ご主人の葬儀の後、住まいの近くでお墓を探されていて、たまたまうちを訪ねて下さったのがご縁であった。大学を卒業して寺に戻ってきたばかりの私を、「住職、あんた若いんだから頑張りなさいよ」といつも声をかけてくれた。お寺の行事にもよく参加して下さった。

    翌朝、枕勤めに伺った。お顔を拝見しながら、信じられない思いと信じたくない思いが交錯して涙があふれてきた。お勤めの後、蓮如上人の『白骨の御文』を拝読させて頂いた。「されば明日に紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」の一節が身に響いてきた。私は、どんな別れ方だったら納得できたのだろう。私の思いの中では間違いなく、もっと生きられると思っていたし生きていて欲しかった。ご遺体を前にして、「住職、あなたも死にいく身を生きているんだよ。あなたはどういのちを終えていくつもりですか?」と問われているようであった。

    仏様の教えは、人間は一瞬一瞬の縁を生きる身であると教えている。だけど、私たちは死なないつもりで生きているのではないだろうか?生きていることに慣れてしまって、朝、目を覚ました時に驚きや感動がない。同じような日常が繰り返し繰り返しやってくると疑うこともなく暮らしている。すべてが、あたり前という言葉で片付けられていく。だけど、自分にとって大切な人との別れは、悲しみと同時に真実を見ることのできない私たちの曇った眼を涙で流してくれるのではないだろうか。ご門徒さんの葬儀からたくさんのことを学ばせて頂きました。

    青樹 潤哉(あおき じゅんや 東京都文京区 專西寺住職)

  • 心に残る法事

    心に残る法事

    法事でお勤めをした後、通常は法話をします。それは大人を対象にした話なので、いつも一緒に参列しているお子さんが退屈そうにしていることに心苦しいものがありました。お勤めが終わり少しの沈黙があると、たいてい小さな子の「もうおわった?」とか「もうかえろ」という声が後ろから聞こえてきます。そのたびに振り返って「ごめんね。もう少しだから待っててね」と苦笑いしながら言ってきました。子どもにしてみれば“時々黒い服(間衣)に輪っか(輪袈裟)を着けた人が変な歌(お勤め)を歌ってつまらない話(法話)をしてお茶を飲んで帰っちゃう”程度にしか見えないのかもしれません。

    そんな状況をどうにかできないものかと、ここ数年はお子さんがいる場合絵本を読むことにしています。絵本は特に仏教色の強いもの、メッセージ性のあるものということにはこだわらず選定しています。

    するとお勤め中、部屋の隅でつまらなそうな顔をしていた子が絵本を読む際は一番前に出てきてくれるようになりました。「ねえ、おぼーさん」と話しかけてくれる子、念珠を持って一緒に合掌してくれる子もいます。「明日お坊さんが来るよ」と知らされると、前日から興奮している子もいるそうです。次はどんな絵本を読んでくれるのかと期待されるのはちょっとプレッシャーですが、喜んでくれる子がいると思うとなんだか法事をする私までワクワクしてきます。

    よく伺う家の法事でのこと、いつものようにお勤めをして、絵本を読もうと後ろを振り返ったら、小さな子がこちらにやって来てちょっと照れた顔で「これ、あげる」と言って白い紙を渡されました。そこにはお勤めをしている私の姿が描かれていました。どうもお勤め中に後ろからガリガリ音がするなと気になっていたのですが、絵を描いていた音だったようです。そこには短時間にもかかわらず輪袈裟の模様や衣の形などがしっかり表現されていました。その絵は私の部屋に今でも飾ってあります。

    仏法を伝えるのはもちろん大切です。しかし、まずその前にお互いの関係が開かれていなければ伝わらないのだなと気づかされた出来事でした。子どもたちの心にも残るような法事がしたいですね。

    柳澤 徳生(やなぎさわ のりお 神奈川県横浜市 最勝寺)

  • 向こうからの眼差し

    向こうからの眼差し

    仏教は偶像崇拝ではないか。イスラム教からの批判です。なるほど、仏像(絵像、木像)を本尊として礼拝しているのですから、当然の批判だと思います。

    でも、この頃思うのです。偶像崇拝でない仏教において、敢えて仏像を本尊と仰ぐところにとても大切な意味があるのではないかと。
    礼拝の作法として、仏さまを仰ぎ見る。難しい言葉だと「せんごう瞻仰」といいます。礼拝といっても、瞑目したり、頭を下げればよいというものではありますまい。

    仏さまを仰ぎ見る。目線を合わせるんですね。こういう合掌礼拝が身についてくると、或る時フッと感ずることがありませんか。私はこうして仰ぎ見ているけれど、向こうさまの眼にはどう写っているのかなーと。

    何でもない、ちょっとした感じですけれど、そこは私の生活感覚を一転させるといってもいい程の、大変な場なのではないでしょうか。

    大体、自分の目線というものにクェッションマークをつけたことのない私です。その私に、かなたから見られたらという感覚が芽吹いたら、すごいことです。

    向こうからの眼といっても、世間の眼・ひとめを気にするというのとは違うのです。大悲のまなざ眼差し。ただの批判の眼、冷たい眼差しではありません。

    この私が深く悲しまれているという事。この事一つに気づかされると、何も変らない私の生活ですが、人生の意味は一変するといったら、言い過ぎでしょうか。

    近田 昭夫(ちかだ あきお 東京都豊島区 顕真寺住職)

  • お経

    お経

    「お経」の「経」の文字は「たていと(経糸)」と読む。経糸と緯糸(よこいと)と言えば織物のことである。人生を一枚の織物にイメージして、この文字を当てたのかは定かではないが、なるほどと思わされる部分もある。

    京都の西陣は織物の町。そこで紡ぎ出される伝統の技は美しく雅な織物となり見る者を魅了する。つづれ織りは、多彩な緯糸を使って図柄を表現する。経糸の五倍のきめ細かさと密度の緯糸は、経糸を包み込むようにして織り込まれ、表面には緯糸の図柄だけが現れ、経糸は表面には見えないという。しかし目に見えない経糸の存在が無ければ、緯糸は図柄にはならない。強い垂直な経糸の存在が織物全体を成り立たせているのだ。

    人生も、自分にとって変わることのない不易な経糸に、自らの生活、人間関係、様々な体験、技術、仕事などを緯糸と見なして、その人の手で、その人しか織ることができない、唯一無二の織物である。加えて私たちは目に見えるものを頼りにしがちで、目に見えないものの大切さや感謝を忘れがちである。経糸の不可欠さはそのことをも教えてくれる。

    大無量寿経というお経には、「われまさに世において無上尊となるべし」 とある。人間としてのいのちを生きている「私」という存在は、無上にかけがえのない尊さを持っていることを宣言されたのだ。ひとり一人が織りなす人生の布は、皆異なり、無上に尊く唯一無二である。

    私たちは何を経糸として自らの人生という織物を織り上げるのだろう。「経」という言葉でお釈迦様の教えが私たちに開かれていることを、大切に受け止めていきたいものである。 

    五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)

  • ゆっくり、急ぐ -人生一生 酒一升 あるかと思えば もう空か -

    ゆっくり、急ぐ -人生一生 酒一升 あるかと思えば もう空か -

    私の書斎には、たくさんのお酒の一升瓶がある。一日の仕事を終えて、ちょっと一杯。まず最初は香りのきつい芋焼酎をロックで。う~ん、うまい。二杯目は奄美の黒糖焼酎、これもロックで・・・。こうしていつのまにかほろ酔い気分の、単なる酔っ払いの中年おやじが完成していく。

    「人生一生 酒一升 あるかと思えば もう空か」。この法語は、ある友人の寺報の中にあった言葉。のんべえの自分には、とても分かりやすい法語だ。まだたくさんあると思っていたお酒のビンが、いつの間にか空っぽになっていく。身をもって実感できる事実である。

    時の流れはひとときもとどまることはない。私たちの生は確実に終わりに向かってすすんでいる。時間には限りがあるのだ。だから本当に急がなければならないことを、きちっと見定めて急ぐのだ。

    でも、あわてちゃいけない。「きちっと見定めて」、ということが大事。あわてて急ぐと、足元にあるものにつまづき、こけてしまう。何を急ぐのかを、人々に聞きながら、教えに聞きながら、急ぐんだ。あわてて急ぐのではなく、ゆっくり急ぐんだ。

    こんな言葉もある。
    一日の空過は、やがて、一生の空過となる (金子大榮)
    厳しい響きのある言葉だけれど、逆にいえば、空しく過ぎることのない人生を生ききってほしい、そんな願いのこもった応援歌のようだ。のんきな私を促し続ける熱いメッセージのようだ。

    合言葉は、人に会い、教えにたずねながら、「ゆっくり、急ぐ」。

    酒井 義一(さかい よしかず 東京都世田谷区 存明寺住職)

  • ぼちぼち いこか - 動きながら学ぶ -

    ぼちぼち いこか - 動きながら学ぶ -

    私のお気に入りに『ぼちぼちいこか』(マイク・セイヤー作 偕生社)という絵本があります。主人公は一匹のカバ。このカバがいろいろなことにチャレンジをします。しかし、船乗りになろうとすると体が重すぎて船は沈み、パイロットになろうとすると体が重すぎて飛行機は飛ばず・・・。カバは次々と新しいことに挑み続けるのですが、どれもこれも失敗ばかり。そして最後にカバはこう言います。
    「どないしたらええのんやろ。ま、ぼちぼちいこか。」と。
    たったこれだけのストーリーなのですが、この絵本がとても気に入っています。

    カバは実際に自分の体を動かして、いろいろなことを失敗という形で体験していきます。ところで私たちは、ものごとを体験もせずに知ってしまう知恵があります。実際にそのことをやってもいないのに「ああ、あれはこんなもんだ」という形で自分の中にひとつの答えを持ってしまうのです。しかし、たとえそれがどんなに立派な答えだとしても、実際に自分が体を動かして知った答えではないがゆえに、結局のところ、それは自分が思い描いたイメージにしかすぎず、思い込みの世界の中で生きているということになってしまいます。

    失敗をしても失敗をしても、「ぼちぼちいこか」と身を動かそうとするカバの、そのしなやかな姿勢にいとおしさを感じます。同時に、私は今まで実際に身を動かして何をし、何を学んできたのか。これから身を動かして何をしようとしているのかを、考えさせられます。

    こんな言葉があります。
    「失敗をしたことが一度もないというのは、
    一生何もしなかったことと同じです・・・・・」。
    失敗をおそれて何もせずに答えを出して落ち着いてしまうより、実際に身を動かして、学び・感じ・考えていくことを大切にしていきたいと思います。そう、失敗なんて当たり前。人間は失敗から学ぶことの出来る、豊かな存在なのですから。

    動きながら学ぶ。大切にしたいことは、この一点です。

    酒井 義一(さかい よしかず 東京都世田谷区 存明寺住職)

  • BEATLESな言葉をめぐって

    BEATLESな言葉をめぐって

    ◇◇◇
    When the night has come and the land is dark
    And the moon is the only light will see
    No I won’t be afraid No I won’t be afraid
    Just as long as you stand, Stand by me
    (“Stand by me” J.Lennon)
    夜が垂れ込めてあたりが暗くなっても、月の光だけが輝いていても、ぼくはちっとも恐くない。
    君がそばに寄り添ってるだけで、ぼくは強くなれるんだ。
    ◇◇◇

    タイトルは「ビートルズな言葉」(へんな日本語)である。しかし“Stand by me”はジョン・レノンが歌っているがビートルズの曲ではない。ジョン・レノンが歌ったので「ビートルズな言葉」に入れることとする。しかもカバーだ。ベンE・キングというオールディーズな人の作詞作曲である。うんと拡大解釈、独断偏見であるがご容赦あれ。何故そこまで拡大解釈したか。

    それは松田悠八さんという人が書いた「長良川 ―スタンドバイミー1950―」という本のせいだ。
    岐阜の長良川が舞台となった、美濃弁いっぱいの少年達の物語。サブタイトルに「スタンドバイミー1950」とあるのは、ロブ・ライナー監督によるアメリカ映画「スタンドバイミー」の美濃版として松田さんがこの物語を書いたからに違いない。長良川のまわりで育った少年達の目に映った「死」が様々なエピソードに彩られながら描かれる。

    物語には夜があふれている。智恵を働かせてうごめきながら、かつ闊達に活動した少年時代の思い出が金華山や長良川の風景の中に浮かんでくる。友達がいたから夜にも闇にも、死という現実にも勇気をもって立ち向かえた。互いに影響しあいながら、その土地の文化に支えられながら、少年から青年へと引きずり上がっていく人間関係の濃密さは、むせかえる草の匂いのようだ。そして、その文化の一端に、このウエブサイトを運営する真宗大谷派の「念仏文化」も描かれている。縁あってこの1月末、仕事で長良川を訪れた。川から金華山と岐阜城を見上げ、少年達の声を聞こうとして何故かほくそえんだ。

    ベンが、ジョンが歌う。「ぼくはちっとも恐くない。君達といっしょだから・・・」
    この勇気と信頼を美濃弁でどう言うのか聞いてみたいものである。
    自分が中学生の頃、家を抜け出して友達と夜中の町を行くあてもなく自転車で流した。深夜営業の本屋の怪しげな自販機、スナックから響く笑い声、忍び込んだ友だちの部屋の灯油の匂いと温かさ。ワクワクしたもんだ。誰にでもある、親には語れない、好奇心いっぱいでなつかしい自分だけの「スタンドバイミー」。だからベンでもジョンでもどちらでもかまわない。この曲が好きだ。

    今の東京は青少年条例で23時以降の18歳以下の外出は、補導と親への注意罰金だ。今の子ども達に「スタンドバイミー」はあるのだろうか。

    五島 満(ごしま みつる 東京都世田谷区 浄行寺住職)