カテゴリー: 巻頭言

  • 巻頭コラム⑬  「過去が未来の鏡」になり得るとき

    巻頭コラム⑬ 「過去が未来の鏡」になり得るとき

     毎年、8月のキーワードは「戦争」である。2019年に亡くなった加藤典洋さんは、「戦後世代に戦争責任はあるのか」という問いを立て、「それは、『ない』ということから考えていっていい、『ない、しかし、引き受ける』というみちすじのありうることを明らかにすることがここでは大事だ」(『戦後を戦後以後、考える』岩波ブックレット)と述べている。その理由として、「罪の自覚は、その個人の行った行為に関する罪でない限り、必ず彼の帰属する集団への共同的ないし公共的連帯感を基礎にするからです」と。だから「彼らにまず罪の意識を根づかせようというこの試み(戦後世代にも罪があるとする主張〔武田補記〕)は、必ず顚倒した形でしか彼らに届かないことになるのです。それは、一種の強迫観念となって、彼らの中に生きるしかない」と。

     加藤さんは「戦争責任はない」と名言することが、「ある」を成り立たせる「足場」であり、この「足場」を確保するとき、主体的な選びとして「ある」が成り立つ可能性があると言う。

     更に、「罪の意識からはじめるというのはダメで、むしろ、この『人間として』という意識がどこから生じるか、ということを先にして考えていかないと、この罪の意識の問題も解けないのです。『世界を引き受けるとはどういうことか』と言いましたが、この意味ではそれは、『人間として』という意識を人はどのようにもつことになるのか、ということだと言ってもいい。」と述べる。

     加藤さんの「人間として」という提起は、「戦争」を過去の出来事にせず、未来をも視野に入れた発言だと思う。まさにいま起こっている、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとハマスの戦いが、それを証明してしまった。「戦争」は「悪」に決まっている、それであっても、懲りずに「戦争」を起こす「人間」の構造を、未来の問題として考えなければならない。つまり、「私の問題」として。これが未来の問題となったとき、初めて「戦後以後に生まれたひとびと」をも包んだ課題となるのではないか。

     そもそも、人間が、突き詰めれば、私が「貪欲(とんよく) rāga」という煩悩で出来上がっている以上、未来にも「戦争」を起こし得る可能性をつねに秘めている。だからこそ、この「貪欲」の騙しを見破り続けなければならない。「貪欲」の構造が明確に「対象化」されるとき、「一切衆生の中の特殊な自己」と異質な、もう一つの自己、つまり、「一切衆生の典型としての自己」が誕生する。これが加藤さんの言う、「世界を引き受ける」という言葉が指し示す「足場」となるだろう。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 187号 巻頭言(2024年10月号)


  • 巻頭コラム⑫  『阿弥陀さんの謝罪』

    巻頭コラム⑫ 『阿弥陀さんの謝罪』

    『阿弥陀さんの謝罪』

     ひとは、誰かに謝罪をしてもらわないと気の済まないものを抱えている。車庫から車で、外の道路に出ようとしたとき、左から走ってきたバイクと接触しそうになった。バイクの運転手は、「いい加減にしろ、このやろう!」と叫んだ。このひとは、余程怒っていたようで、初対面の私に「いい加減にしろ」と叫んだ。「いい加減にしろ」とは、前に何か関係があってからの言葉だろう。このひとも誰かに、ちゃんと謝罪してもらっていないひとなのだと思った。

     ところで、『涅槃経』に出てくる阿闍世王子は、父を殺して苦しんでいるとき、御釈迦さんの謝罪を受けている。「もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし」(『教行信証』信巻・真宗聖典262頁【第1版】、298頁【第2版】)と。お前が父を殺して、罪があるとするならば、私にも罪があるのだ、と。つまり、阿闍世が罪を犯すような境遇になったのも、私のせいなのだと言って謝罪している。この謝罪を受けて阿闍世は、「無根の信」という境界を開いていく。「無根」だから、阿闍世自身の内部に根拠のない「信」である。この「根」は、一切衆生にまで繋がっている根っこだ。

     『涅槃経』の文面には「御釈迦さんの謝罪」と書かれているが、親鸞はそれを「阿弥陀さんの謝罪」と受け取っていたと思われる。

     いままで父殺しの罪に恐れおののいていた阿闍世が、「無根の信」を開くことで、地獄を怖れなくなる。地獄を怖れるこころは、まだ地獄に落ちていないこころだ。「無根の信」とは、自分が地獄と一体になったことの発見だ。つまり、一切衆生の罪と一心同体になったのだ。

     阿弥陀さんの謝罪がなければ、一切衆生の罪と同化することはできない。

     これは何も阿闍世だけに限ったことではない。なぜなら我々人類も、怨みを抱えて生きているからだ。どんな怨みか。それは、必ず死ななければならない※「いのち」として産み落とされたことに対する怨みだ。この怨みが、あらゆる犯罪を引き起こす根源的要因となっている。

    ※「いのち」

     しかしまた、この怨みは、阿弥陀さんからの謝罪を受けなければ、決して解体されない。「お前にはひとつも罪はない。すべては私が悪かったのだ」と謝罪する阿弥陀さんに出遇うことによって、初めて「いえいえ、こちらこそ申し訳ありません」と私の頭が下がる。この阿弥陀さんの謝罪に対する返礼を「念仏」というのだ。

     いずれにしても、人類の喫緊の課題は、阿弥陀さんの謝罪を受けること以外にない。

     この怨みが解体されなければ、「原理的に」、この世から犯罪はなくならない。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 186号 巻頭言(2024年6月号)


  • 巻頭コラム⑪  『「仏説」としての「煩悩具足の凡夫」』

    巻頭コラム⑪ 『「仏説」としての「煩悩具足の凡夫」』

    『「仏説」としての「煩悩具足の凡夫」』

    我々人間は、どうして「我々は…」という感じ方をするのだろうか。野球のWBCの試合を観戦していたとき、どうしても、「日本」を応援したくなる自分がいた。相撲や卓球の試合を見ていても、別に贔屓(ひいき)にする選手がいるわけでもないのに、観戦していて、知らず知らずのうちに、必ずどちらかを応援している自分に気付いた。そして、人間はどうして、自分に親和性を感じる人間と、そうでない人間を分けてしまうのだろうかとも思った。これは気がつけば、そうしている自分に眼がいくので、「知らず知らずのうちに」だから根が深い。

    親鸞ならば、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたること(『歎異抄』第九条)と言うかもしれない。「煩悩具足の凡夫」とは、阿弥陀さんのみがご存じのことであり、それが「おおせ(仰せ=教え=仏説)」という意味だ。これは「おおせ」だから、あくまでも阿弥陀さんが、我々に呼びかけられる言葉であって、それを「自分のこと」だと、平然と受け止めたら大間違いだ。人間が、「自分のこと」として受け止められるのは、自分が理解した範囲内のことだけだ。その理解も、「劣等感」の受け止めだ。「自分は『煩悩具足の凡夫』だから、どうしようもない者なのだ」と、「劣等感」で受け止め、さらに、「自分は『煩悩具足の凡夫』だけれども、それは仕方がないのだ」と自己慰撫(いぶ)する。そこに阿弥陀さんはいない。自分で自分のことを、あれこれと斟酌しているに過ぎない。

    だから、阿弥陀さんは、決して「劣等感」で受け止められないように、「おおせ(仏説)」とされたのだ。「おおせ」とは、外部からの声であり、自己の内部のことと受け止めてはならないという常則である。常に、「万劫の初事」として聞く言葉であり、決して人間が「分かった」と「既知」の内部にならないものだ。つまり、「自己」とは、自分にとって、永遠に不可思議な出来事なのだ。

    親鸞も、「煩悩具足の凡夫よ」と呼ばれ続けたのだろう。そのとき親鸞は、「悲しきかな、()禿(とく)(らん)」(『教行信証』信巻)と受け止めると同時に、「ああ、()(ぜい)(ごう)(えん)、多生にも(もうあ)いがたく」(『教行信証』総序)と、思わず叫んだのだろう。この、「悲しきかな」と「ああ(噫)」を連動して引き起こすものが「仏説」である。

    煩悩を自覚して、「悲しきかな」と悲嘆した途端に、煩悩が私を教える〈教材〉に転換する。煩悩が起こる度に、阿弥陀さんから具体的な〈教材〉が与えられる。 それは、一生を貫く〈私一人〉への有り難い〈教え〉だ。だから親鸞は「ああ(噫)」と叫ばざるを得なかった。そもそもそれは、阿弥陀さんから〈私一人〉への、直々のプレゼントなのだから。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 185号 巻頭言(2023年10月号)


  • 巻頭コラム⑩ 『「存在倫理」の疼き』

    巻頭コラム⑩
    『「存在倫理」の疼き』

    『「存在倫理」の疼き』

    誰が見ても、ロシアによるウクライナ侵略戦争は間違っていると思えるのに、その考えは、いわゆる「西側」という色メガネを掛けた人間たちの感覚なのだと教えられた。それは、

    「国連人権理事会での『理事国としての資格』をロシアから剥奪する国連決議に関して」、圧倒的多数で賛成されるはずだと思っていたのに、「決議案に賛成したのは九十三カ国、賛成しなかったのは八十二カ国」

    (大澤真幸『この世界の問い方』朝日新書)

    と評決が拮抗したことを知ったからである。「賛成しなかった八十二の国」とは、「グローバルサウス(第三世界)」と呼ばれる、アフリカやラテンアメリカ諸国、アジアの新興国のことだ。

     その理由を大澤は、「少なくとも、これらの国々から見れば、ロシアの人権侵害を非難する西側諸国も、今ロシアがウクライナに対してやっているのと同じような人権侵害を、自分たちに対して行ってきたように感じられるからである」と述べている。

     だからといって、ロシアの侵略戦争がまったく支持されるわけではない。そこで大澤も述べているが、西側を支持すべきだと。西側は自分たちの偽善が偽善であることを自覚できる可能性を秘めているからだと。そしてその自覚が同時に、グローバルサウスの国々が真底納得する「倫理」につながっていなくてはならないと。

     「西側」という色メガネを掛けた私の罪も、そこに炙り出された。同時に、人間が「我々は」という言葉を使うとき、どこまでを「我々」と意識できるかが問われた。

     阿弥陀さんは、「諸天(しょてん)・人民(にんみん)・蜎飛(けんぴ)・蠕動(ねんどう)の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん」(『真宗聖典』百五十八頁)と言われる。つまり、阿弥陀さんが呼びかける救済対象としての「我々」は、人間をも超え、ボウフラや蛾やミミズなどの生き物も包んでいる。当然、グローバルサウスをも超え包んでいる。そこまでを射程に入れられなければ、あらゆる生き物が納得する「倫理」にはならない。奇しくも亡き吉本隆明が「存在倫理」という言葉を作ってまで表現しようとしたかった「倫理」とは、そういうものではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 184号 巻頭言(2023年4月号)


  • 巻頭コラム⑨ 『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    巻頭コラム⑨ 『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    『一人一世界(ひとりいちせかい)の奪回』

    まさか二十一世紀になって、武力により他国を侵略するなどということが起ころうとは、思ってもみなかった。国連は、他国間の紛争仲裁システムだと思っていたが、これも組織の成り立ちに問題を抱えていて、機能不全に陥っている。

    改めて「過去は未来の鏡」だと教えられる。「未来」を知ろうとするなら、人類の「過去」に学ぶ以外にない。どうも「過去」以上の「未来」という夢は、人類に与えられていないようだ。

    そのような状況に、〈真・宗〉が人類に提供できるものは、世界観の奪回ではないか。私たち人類は、「世界は一つ」だと思っている。確かに地球は物理的に一つの球体である。だから領土を奪い合うということも起こる。

    しかし、そこを生きる「環境世界」まで一つだと考えることは危険である。「環境世界」という用語は、生物学者・ユクスキュルの言葉だ。彼は、「世界が一つ」という観念を「妄想」と呼び、次のように言う。

    この妄想は、世界というものはただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。

    ここから、すべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる。

    『生物から見た世界』

    彼は、生物を丁寧に観察することにより、人間の眼を、「妄想」と批判した。人間の眼は、人間という特殊な生物が受け取った限りでの見え方であり、決して「客観的な事実」ではないと。他の生物と人類の「環境世界」は重なりあっているだけであり、決して「一つ」ではないと。それを突き詰めれば、地球上に七十六億人がいれば、七十六億の世界があることになる。それを私は〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)と言っている。厳密に見れば、いま、ここで、この世を一人称で生きているのは、私以外にない。

    私を成り立たせている唯一の「環境世界」こそが「私」だ。この〈一人一世界〉(ひとりいちせかい)が奪回されなければ、人類の抱えている「比べるという煩悩」を相対化することはできない。私たちが生きられるのは、本来、比べることのできない独尊の世界なのである。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師『東京教報』 183号 巻頭言(2022年10月号)

  • 巻頭コラム⑧ 『孤独感の罪』

    巻頭コラム⑧
    『孤独感の罪』

    『孤独感の罪』

    二〇二二年一月二十七日に「埼玉県ふじみ野市」で起きた「散弾銃男立てこもり事件」が抜きがたい棘のようにこころに刺さっている。事件の完全解明はまだだが、私が気になった点は、犯人(六十六歳・男)が母親(九十二歳)に完全依存していた点だ。診察のため病院へ母親を連れて行き、診察の順番を待てずに、自分の母親を最初に診ろと迫って騒いだとか。また、すでに亡くなっている母親に心臓マッサージをしろと、出張介護クリニックの医師に要求し、それが叶わないと分かると医師を猟銃で殺害したとか。断片的な情報だが、これらをつなぎ合わせると、どうしても母親に完全依存していた六十六歳の男の像が浮かび上がってくる。これはあまりに残忍で猟奇的で、特異な事件だが、こういう男が生まれてくる淵源と、自分は地続きだと感じる。つまり、自分が愛する対象を傷つけられたとき、自分はそれを承諾できないという痛みだ。それを突き詰めて考えると、『仏説無量寿経』の「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)《略》身自当之(しんじとうち)、無有代者(むうだいしゃ)」(独り生じ独り死し独り去り独り来りて《略》身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし)が受け取れないということだ。

    この経言は人間に「孤独感」を与えるものではなく、公明正大な「独生独死」という仏法の〈真実〉を教えるものである。この世に「生きている」と言えるのは、〈私〉以外にはいないという厳粛な事実だ。

    しかし、人間はそれを寂しさという「孤独感」に変質させてしまう。「独生独死」を「孤独感」として受け取らせるのは「貪欲」(とんよく)という煩悩だ。「貪欲」は「独生独死」を打ち消すために、あらゆるものを身に付けようとする。ヤドカリが硬い貝殻で身を守り、その貝殻にイソギンチャクや藻などをくっつけるのと似ている。この六十六歳の男は、母親をくっつけて身を守ろうとした。殺害は「孤独感」という「貪欲」が、手が付けられないくらいに肥大化した結果ではないか。悲しいことに彼には「貪欲」が透明になっていて、それが「貪欲」として見えていなかった。「貪欲」が「貪欲」として見えれば、「貪欲」の支配から逃れられる。〈真・宗〉が人間に要求するものは、この「気付き」という一点なのではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』182号 巻頭言(2022年4月号)

  • 巻頭コラム⑦ 『希望をも超えた世界』

    巻頭コラム⑦
    『希望をも超えた世界』

    『希望をも超えた世界』

    コロナ下にあって、みんな憂鬱な顔で暮らしている。このようなとき、〈真宗〉は何を発信できるのかと問われた。ただ、コロナについてはいくら探しても朗報らしきものは見つからない。そして原点に帰された。〈真宗〉の原点は、「あらゆる災厄はすべて阿弥陀さんのご催促と受け取れ」だ。蓮如上人が「疫癘の御文」(『真宗聖典』八二七頁)で述べられたことは、人間は災厄で死ぬのではなく、誕生という根本原因で死ぬということだ。災厄は死の条件であり、原因ではないという見方だ。さらにそれは他人の死ではなく、他ならぬこの〈自己自身の死〉として受け取れと迫ってくる。いわば「今日が人生最後の日と思え」ということだ。

    親鸞聖人も「臨終」を「「一切臨終時」というは、極楽をねがうよろずの衆生、いのちおわらんときまで、ということばなり。」(同書『一念多念文意』 五三四頁)と述べている。「いのちおわらんとき」というのは、これから何十年後かのことでなく、〈次の一瞬〉のことである。私達の死の可能性は、つねに〈次の一瞬〉にあるからだ。その可能性を否定したいために、私達は自分の臨終を何年後かに想定したがる。その自分に向かって、「今日が人生最後の日と思え」という叫びが浴びせられる。これは人間が他の人間に向けて発することのできる言葉ではない。 蓮如上人も「阿弥陀如来のおおせられけるようは」(同書『御文』 八二七頁)と言われるように、阿弥陀さんだけが人間に向けて発することのできる言葉だ。この叫びは〈真実〉の叫びである。ところが自分は、この叫びを素直に聞くことができない。どうしても、「今日が人生最後の日」だとは思えない。実は、この徹底して〈真実〉に背いている自己を阿弥陀さんはターゲットにされている。まさに「謗法の徒」をのみターゲットにして「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせ」(同書 八二七頁)よと迫ってくる。究極的に阿弥陀さんが見せて下さる〈浄土〉とは、絶望もないが希望をも超えた世界であるに違いない。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』181号 巻頭言(2021年10月号)

  • 巻頭コラム⑥ 『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    巻頭コラム⑥
    『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    『〈真・宗は「死なない」宗教〉』

    「死なない」とは不老不死の意味ではない。そのために「死なない」と括弧を付けた。

    以前、私はこのように理解していた。「人間ばかりでなく、すべての生き物は死ぬ。死は生理的なことで誰も逃れることができない。それでも真宗は、ひとが亡くなることを『死ぬ』とは言わず、『往生する』と表現するのだ」と。この理解では、「死ぬ」ことが自明の出来事になっている。自分は「死ぬ」ことを知っているが、それを真宗では「死ぬ」とは言わず「往生すると意味づける」のだと思っていた。しかし、それが間違いだと気付いた。自分は「死」を完全には知らないからだ。自分が知っている「死」は二人称、あるいは三人称の死であり、「一人称の死」では決してない。自分はまだ死を体験したことがないのに、死が何かを知っているという思い上がりがそこに潜んでいる。この思い上がりでイメージされた「死」は、「暗く、冷たく、寂しい」ものだ。なぜそう感じるかと言えば、他者の「死」を〈利害損得心〉で見て、「死」をイメージするからだ。親鸞は、この思い上がりから生まれるイメージの解体を「往生」という言葉で直感したのではないか。さらに親鸞は、それを「断」という強烈な言葉で提示する。「『断』と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。」(『教行信証』(信巻)真宗聖典二四四頁)と。往生とは、死んで他の生き物に生まれ変わるとか、理想の他界や地獄に生まれることでは、まったくないという意味だ。しかし、そう言われても、まだ体験したことのない自分の「死」を、あれこれとイメージしてしまうのも偽らざるところだ。たとえそうであってもよいのだ。そのイメージが沸き起こる度に、「往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。」(歎異抄・聖典六三七頁)と断じようとして阿弥陀さんが関わって下さるから。自分が知っている死のイメージが完全に解体される「臨終の一念」に到るまで。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』180号 巻頭言(2021年4月号)

  • 巻頭コラム⑤ 『〈コロナ〉というメタファー』

    巻頭コラム⑤
    『〈コロナ〉というメタファー』

    『〈コロナ〉というメタファー』

    新型コロナウイルスという見えない存在により、全世界が怯えている。このウイルスが恐れられているのは、感染していても症状がすぐに現れないことと、感染してからの致死率の高さだ。科学者に聞くと、ウイルスは、今回のように人類に災厄をもたらすが、同時に進化ももたらしてきたという。今後は、ウイルスを「正しく恐れる」ことにこころを留めなければならない。

    蓮如上人は「疫癘(えきれい)の御文」で「これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業(じょうごう)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。」(『真宗聖典』827 頁)と述べている。ウイルスは死の条件であっても、原因ではない。死の原因は誕生以外にない。これは〈真実〉の言葉だ。ただ人間は、それを「その通り」と受け取れない。人間は、死を「まさか」という意識でしか受け取れない。蓮如さんも、連れ合いを次々に四人も亡くされているのだから、「まさか」と驚きうろたえたに違いない。もし驚きうろたえないようでは、凡夫失格である。ただし、驚きうろたえただけで終わってはいなかった。そこから阿弥陀さんの声が聞こえてきたに違いない。「さのみふかくおどろくまじきことなり」と。この言葉は驚きうろたえている蓮如さんの耳にしか聞こえてこなかったのではないか。蓮如さんの耳に聞こえてきた言葉を、筆を執って「御文」に書き留めたのだろう。だから蓮如さんは、驚きうろたえている門徒に向かって語っているように見えて、本当は、阿弥陀さんからご自身が受け止めた言葉をしたためたに違いない。「私が驚きうろたえているとき、阿弥陀さんから、このような言葉をいただいたのだ。さて皆さんはどう受け止めるか」と蓮如さんは語られたのだろう。蓮如さんも、我々真宗門徒も、同じ地平に立っている。それは一寸先にある〈死〉に、唯一無二の自己が対面している地平であり、曠劫以来、阿弥陀さんとだけ対面してきた地平である。

    ※メタファー(metaphor)は「隠喩(いんゆ)」と訳され、理性で明確に概念化できない事象や表現を意味する。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』179号 巻頭言(2020年9月号)

  • 巻頭コラム④ 『元号からの問いかけ』

    巻頭コラム④
    『元号からの問いかけ』

    『元号からの問いかけ』

    「元号」とは、「古代中国の前漢の武帝の時代に始まった制度で、皇帝の時空統治権を象徴する称号」(ウィキペディア)である。つまり、「天皇が統治支配する時間・空間」のことだ。政府の元号選定論議では、中国由来を排除し、国書である万葉集から「令和」を選んだとも言われている。ここに「日本人固有の尊厳」を確立するのだという動機が見える。日本人は、昔から「日本人固有の尊厳」を確立しようとするとき、諸外国の文化、つまり仏教等の外来思想を排除してきた。それも国家という共同幻想体であれば、そういう力学がはたらくのもやむを得ないことかもしれない。私は、それを政治的文脈でなく、信仰者のアイデンティティの文脈で考えている。

    私は元号を使用するとき、「ためらい」を感じる。それは仏教導入時の曽我氏と物部氏の争い、さらに「承元の法難」、さらに芋づる式に明治期の廃仏毀釈、そして太平洋戦争までをも連想してしまうからだ。

    煎じ詰めると、戦時下で「天皇と阿弥陀仏の本願は同様であると思ふ」と語った教学者のアイデンティティはどのような形をしていたのか。つまり「日本人としての私」か「信心の行者としての私」か。これは「日本人」にとって、実に根深い問題である。そしてそのふたつは自分の中でいかなる関係にあるかが問われるべきだ。決して、それは二者択一の問題でなく、主客の問題として問われるべきだろう。 「過去は未来の鏡」だから、これは決して過去の問題ではなく、来るべき未来の問題である。「信心の行者」にとって「元号」は問題提起として、つねに眼前に存在しているのではないか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』178号 巻頭言(2020年4月号)