カテゴリー: 巻頭言

  • 巻頭コラム③ 『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    巻頭コラム③ 『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    『人間の諸問題が〈人間界〉では決着つかん』

    人間の「諸問題」は、突き詰めてみると「あれかこれか」という質の問題だ。民主主義は素晴しいと言って、手を挙げた結果、「49対51」になったらどうするか。その49人は51人の意見に従わねばならないのか。それでは「決着つかん」のではないか。

    近頃「同調圧力」という言葉が気になっている。ウィキペディアでは、「同調圧力(英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定を行う際に、少数意見を有する者に対して暗黙のうちに多数意見に強引に合わせさすことを指す。」とあった。

    〈真宗〉は常に、どの時代でも「少数意見を有する者」の側にある思想ではないか。太平洋戦時下では、「少数意見を有する者」の側であることに踏ん張り切れなかった。「同調圧力」に屈した。

    なぜか。それをとことん問い詰めていくと、我ら真宗門徒が阿弥陀さんの批判を聞くことができなかったからだ。阿弥陀さんを中心に生きるのではなく、「同調圧力」を生みだす集団におもねたからだ。さらに「同調圧力」をかける側に回ったからだ。それは、自らの持っている「同調圧力」を対自化できなかったということだ。

    それもそのはずだ。人間には「同調圧力」を見ることができない。それは透明な「空気」みたいなものだ。いじめ集団には、いじめられる側の圧迫感が見えないのと同じだ。 「過去は未来の鏡」である。これからも〈人間界〉の「諸問題」に直面したときには、〈阿弥陀中心主義〉でいくべきだ。人間は未来永劫、「間違う存在」だから、阿弥陀さんという〈真実の鏡〉をたよりにするしかない。阿弥陀さんだけが〈人間界〉を絶対批判できる眼を持っている。決して、人間を、そして〈人間界〉を信じてはならない。〈人間界〉には救いはないぞと、阿弥陀さんは叫んでいる。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』177号 巻頭言(2019年9月号)

  • 巻頭コラム② 『スマホ内世界は二十願の世界』

    巻頭コラム②
    『スマホ内世界は二十願の世界』

    『スマホ内世界は二十願の世界』

    電車に乗って、周りを見渡してみると、ほとんどのひとがスマホを片手に何やらやっている。ひと昔前までは、新聞や本を読むひとが多かったが、いまでは、それは皆無に近い。スマホでゲームに熱中するひと、メールをするひと、ショッピングのページを見つめるひとと用途はまちまちだが、外見上はほとんど区別がつかない。

    確かに電車の中は密閉空間だから、息が詰まる。その息苦しさからスマホの世界へと没入する。それは一種の「出家現象」だ。娑婆の息苦しさを脱して、ひとりの世界へ脱出したいという願望だろう。それもよく分かる。ただ、よく考えてみると、あれは他者に通じるツールのように見えて、自分の内界と深くつながっているのではないか。まさに「スマホ内世界」だ。

    スマホを見ながら自転車に乗り、誤って歩行者を事故死させる事件があった。あれも完全に「スマホ内世界」に入り込んでしまい、外界が見えなくなる現象だ。「スマホ内世界」は、快適で温かい世界なのだろう。だから肉体という三次元の世界を超えてしまう。私たちが生きているのは、老病死が存在する三次元の世界なのに。

    「スマホ内世界」とは親鸞の信仰世界で言えば、二十願の世界だ。そこは胎宮と譬喩的に語られる。胎宮とは、阿弥陀さんの胎内だろう。そこは温かく快適で安全な場所だ。そこに入ってしまえば恍惚に浸れる。この胎宮がなぜ危ないのかと言えば、それは阿弥陀さんと対面できないからだ。阿弥陀さんの胎内から生みだされ、初めて阿弥陀さんと対面し「親子の名のり」が出来る。それが南無阿弥陀仏だ。  スマホが便利なうちはよい。便利を超えて依存したら、「スマホ内世界」に飲み込まれる。私たちは、いま、そういう危険な状況を、人類史上はじめて体験しているのではなかろうか。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』176号 巻頭言(2019年4月号)

  • 巻頭コラム① 『〈未生怨〉(みしょうおん)の誕生』

    巻頭コラム①
    『〈未生怨〉(みしょうおん)の誕生』

    『〈未生怨〉(みしょうおん)の誕生』

    「未生怨」は、『涅槃経(ねはんぎょう)』に出てくる言葉ですが、私はそれを、すべての人間に当てはめて、「生まれながらに怨みを抱えている存在」と言い換えています。ですから「未生怨」でない人間は、この世にいません。

    恐ろしいのは、人間社会は人間に対して、「素直で、善良になれる」という幻想を与え続けてきたことです。本質は誰しも「未生怨」なのに、その「未生怨」の存在に対して、「お前は、本当は善良で素直な人間に成れるのだ」と抑圧が加えられ続けてきました。

    煎じ詰めていけば、その抑圧があらゆる犯罪の根本原因だと思われます。

    「未生怨」がどこから生まれてくるかと言えば、「自分の出世が『偶然』である」という堅い思いからです。偶然、事故のように誕生したのが自分であるという認識は、自分の存在に対して、そして世間に対しても無責任になるのは当然です。

    現代の科学で追い詰められる自己の誕生の原因は、父と母との性交以外にはないのです。性交とは、偶然の事故的な男女の接合であり、卵子と精子との合一も、またさらに、事故的な偶然以外にありません。

    この偶然なる事故的生に対して、「お前の生は、『必然』だったのだ」と叫ぶ悲愛が投げかけられなければ、「未生怨」は決して癒えることはありません。それは人間が投げかけられるものではありません。阿弥陀さん以外にはありません。

    いち早く、阿弥陀さんに出遇う以外に「未生怨」を自覚化することはできないのです。

    東京6組 因速寺 武田 定光 師 『東京教報』175号 巻頭言(2018年9月号)